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幻朧街(げんろうがい) 前半
気づけば、男は街の中を歩いていた。
見覚えのないけれど、どこか懐かしい。そんな街だ。
ひっそりとした路地の、御影石でできた石畳の両脇には、白い漆喰の塗られた美しい木造家屋が並んでいる。冷たさをはらんだ春の日差しが降り注ぎ、灰色の屋根瓦を鈍く照らしていた。
形や大きさは多少違えど、どれも同じ白い壁に灰色の屋根瓦。それらの家並みがどこまでも続く街は、まるで一つの巨大な生物のようにも思えるのだった。
白と灰色に支配された街の中には、店がちらほらと見受けられるが、やっているのかいないのか、どの店も閉まっている。
その中で唯一、開いている店があった。灰色の屋根瓦に、真っ白の漆喰と木がうまく調和した二階建ての日本家屋は、古いながらもどこか品の良さを感じさせた。
入り口には深い藍色の暖簾が掛けられ、一階の屋根瓦には看板が大きなその身を横たえていた。
《言伝屋》とある。
何の店だか分らなかったが、男は何故だか、ひどく興味をそそられた。一度は店の前を通り過ぎたものの、どうしても気になって戻ってしまったほどだ。似たような店はいくらでもあるのに、その店にくぎ付けになったまま、立ち去ることができない。
それでも、得体の知れない店に足を踏み入れるのは、ちょっとした勇気がいる。しばらく足を止めて店の様子を窺っていたが、意を決して暖簾をくぐってみることにした。急に暗いところを覗いたので、男は目を細めた。
「……ここは何の店かね?」
男は、金井武雄(かない・たけお)といった。背筋はピンと伸びているが頭は白いものが混じり、顔には細かなしわが刻まれている。白いポロシャツにベージュのスラックス。足もとの黒い革靴は丁寧に磨かれ、陽光を反射していた。年金暮らしになって随分経つが、身なりをきちんと整えるのは日々の日課だ。
やがて薄暗い店内に目が慣れると、入り口の脇に小さな座敷があるのに気づいた。番台に正座をしていた若い男が、つとこちらに目を向ける。
藍染めの着物に眼鏡の、いかにも文学青年といった雰囲気だ。年は二十歳ほどだろうか。それにしては妙に落ち着いているな、と武雄は思った。
最初は女かと思ってどきりとしたが、目を凝らしてみれば、体つきは間違いなく男だ。髪が長く、艶やかであったので、つい見間違えてしまったのだ。顔立ちが細面で、物腰が柔らかな印象であるのも、その原因だろう。
着物の男は手にしていた煙管をポンと叩いて灰を落とし、そばに置いてあった煙草盆の柄に引っ掛ける。
「お客さんですね。どうぞ」
そう答えると、背筋を伸ばしたまま、すっと立ち上がる。昨日や今日、着物を着始めたのとは違う。流れるような、綺麗な所作(しょさ)だった。武雄は、ほうと軽く目を瞠(みは)った。
ここはいったい、どういう店なのだろう。
店内は茶屋のようだった。店の中央には洒落た木製のテーブルと椅子のセット、壁際には座敷とカウンター。田舎の観光地にある、古民家を改装した和モダンなカフェとよく似ている。しかし、ざっと見渡したところ、メニュー表の類(たぐい)は見当たらない。
「お名前を伺ってよろしいですか?」
着物の男が近づいてきて、武雄を奥の座敷へと促す。
「名前? 僕は金井武雄というものだ」
そう答えながら、通された座敷に腰かけた。
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