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「……成るほどねえ。そんなに悠長で儲かるの?」
武雄の素朴な質問に、《言伝屋》は目を見開いた。次いで苦笑に似た笑みを漏らす。
「どうでしょう……儲けですか。考えたこともありませんでしたね」
武雄も肩を竦めた。
「そりゃそうか。この世じゃないんだ。銀行もクレジットカードも無さそうだし。いやあ、職業病だな」
「お仕事は何を?」
「経理をしていたよ。小さな会社だったけどね。いつも帳簿とにらめっこだったから、ついあれこれ余計なことを勘繰っちゃうんだ。現役を退いたのはもう十年も前の話なのに」
武雄はしんみりとつぶやく。
「そうか……十年だもんな。僕も死んでしまうわけだ」
武雄の胸の中で、今になって死んだという実感が、じわりと伴ってくる。それは、好きな映画が終わってしまう時の、一抹の寂しさに似ていた。
「……何か残していかれますか?」
《言伝屋》は尋ねると、武雄は腕組みをして考え込む。
「そうだなあ、でも今更ねえ……。その……大したことじゃなくてもいいのかい?」
「ええ、何でも。ヘソクリの隠し場所や、奥さんに『夕飯には鯖が食べたい』と書き残された方もいらっしゃいますよ」
「ははは、そりゃあいい。意味は無くても、書くことで何か吹っ切れるのかもしれないね」
この店で誰かにメッセージを残しても、それが「誰か」の為になるとは思えない。何故なら、メッセージを受け取る側も死んでいるからだ。だとすれば、伝言を残すという行為そのものに、何か意味があるのかもしれない。
「うーん……じゃあ、ちょっと書いていこうかな」
武雄は照れ笑いを浮かべる。
《言伝屋》は店の奥から筆と硯、半紙を運んで来ると、こう付け加えた。
「どなたに宛てたものか……それだけはしっかり書いてください。でないと届きませんから」
武雄は慣れた手つきで墨を擦りはじめた。習字が得意で、会社の挨拶状や表彰状などは武雄が書いていたし、今でも年賀状は筆で手書きしているくらいだ。
武雄は半紙に筆を乗せると、リズムよく筆が紙をはしる音が聞こえてくる。やがてすべてを書き終えると、墨が渇くのを待ち、半紙を四つ折りにした。それを和紙でできた海老茶色の封筒に入れると、最後に『深優へ』と表に書き入れた。深優は、武雄の孫娘だ。
《言伝屋》は書き終えた文を両手で丁寧に受け取った。
「確かに、お預かりしました」
武雄は座敷から立ち上がると、店の出口へと向かう。
「いやあ、楽しかったよ。ところでこれ、どっちに行けばいいのかい?」
《言伝屋》の前には石畳の路地が左右に伸びていた。どちらに行っても似たような景色が延々と続いていることを、さんざん歩き回った武雄は知っていた。これからどこへ行けばいいのか。すると、言伝屋は事も無げに答える。
「この通りを左に真っ直ぐ行くと門があります。それがこの街の出口ですよ」
「こっちの通りに門なんてあったかな……?」
先ほど歩いた時には、その様なものは無かったはずだが。首を捻る武雄に、《言伝屋》は妙にはっきりと告げる。
「ありますよ……今度はすぐに見つかるはずです」
「そんなものかな。それじゃ、行ってみようか」
武雄は《言伝屋》の言葉に背中を押されるように歩いていく。
《言伝屋》は店先に立ち、その後ろ姿を無言で見送った。
――そして、金井武雄が幻朧街に姿を現すことは二度となかった。
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