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幻朧街(げんろうがい)後半
それから一年が経った。春の日差しの暖かさと、風の冷たさが入り混じる日だった。
「あのう……どなたかいらっしゃいませんか?」
《言伝屋》を訪れたのは、二十歳を過ぎた若い女だった。抜けるような色白の顔には、少女の面影がまだ残っている。それが、ゆるく波打った長い髪や、ぱっちりとした垂れ目とあいまって、まるで物語の妖精のようにも見える。着ている服だけでなく、動作のひとつひとつからも、育ちの良さが窺えた。
しばらく待っても、どこからも返事が無い。女はおそるおそる《言伝屋》の中を覗いた。
「何か御用ですか?」
てっきり無人だとばかり思っていたが、店の入り口脇の座敷に、若い男がいるではないか。女はびっくりして飛び上がった。
「きゃっ……す、すみません。気付かなくて……」
「構いませんよ。お名前を伺ってよろしいですか?」
男は着物姿だった。さらりとした黒髪は、男性にしては少し長いように感じるけれど、鬱陶しくはない。切れ長の目は優美な弧を描き、細眼鏡とよく似合っていた。
落ち着いた物腰と、上品な佇まいから、最初は年上かと思ったが、よく見れば自分と同い年ではないか。それに気づいた女は、ほっとしたように答える。
「あ、はい。私は金井深優といいます。あの……ここはどこですか? 私、ニューヨークに行かなきゃいけないんですけど……」
深優は両手を胸元で組むと、おずおずと名を告げた。華奢な体にくらべて、大きな手のひら。指もすらりとして長く、形のいい、美しい手だ。
「ニューヨーク、ですか」
男は相槌を打った。
「はい。世界的に有名な音楽大学に留学するんです」
ようやく決心を固めて、日本を飛び出したのだ。こんなところで寄り道をしている場合ではない。はやくしなければ。じりじりとした焦りが深優の背を伝う。
ところが、そんな深優をよそに、《言伝屋》は幻朧街の説明をはじめた。
幻朧街が狭間の街と呼ばれていること。死者の世界と生者の世界の間にある街だということ。この街を訪れるのは死者だけだということ。
「つまり……私はもう死んでいる、ということですか?」
深優は戸惑いをあらわにした声音で尋ねた。
「そうなりますね」
《言伝屋》は静かに答える。
「私、飛行機に乗っていて……そこで記憶が途切れてるから、事故か何かあったのかも……。そう言えば変に揺れていたし……」
深優は細いあごに手を添え、ほつれた糸を解くように思い出していく。
不思議と自分が死んだということに、衝撃は無かった。むしろ死んだと分かって、ほっとしたくらいだ。たとえば、忘れものを思い出して、すっきりした感覚に似ているだろうか。先ほどニューヨークに行かなければと焦っていた自分が、何だか無性におかしく思えてくる。
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