幻朧街(げんろうがい)後半

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「……失礼ですが、音楽をされていたんですか?」  《言伝屋》にそう尋ねられ、はじめて深優はほほ笑んだ。 「ええ、幼い頃からピアニストになりたくて、ずっとピアノ一筋でした。友達と遊んだ記憶なんてありません。いつもレッスンでしたから」  深優はどこか誇らしげに、胸元の手を包んだ。大きな手は生まれつきだ。だから体が小さくても、ピアニストを目指すことができた。 「家族は理解してくれたんですけど……おじいちゃんは反対したんです。『才能で食べていける人間はひと握りだ。もっと安定した道を選びなさい』って。おじいちゃんは几帳面でしっかりした人だったから、そう考えても仕方ないんですけど……」  そこで言葉を区切ると、深優の色白な顔に、少しだけ影が浮かんだ。 「おじいちゃんは、子供の頃から私をすごく可愛がってくれたんです。だから反対されるなんて思ってもみなくて……ちょっとショックだったな」 「夢を追いかけていらっしゃったんですね」  《言伝屋》は深優を見つめて言った。まさに、その通りだった。  深優がピアノと出会ったのは、幼稚園の時だった。水泳や英会話といった習い事は、苦手でもなければ好きでもなかったけれど、ピアノを弾くことは純粋に楽しかった。  楽譜に描いてある世界を、自分なりの音で表現し、曲のイメージを膨らませてゆく。作曲家の求める音と、深優の感性が混じりあい、指先が奏でる鍵盤から、新たな音楽が生み出されてゆく。その充実感は、他では得られないものだ。  だから、他の習い事は途中でやめてしまっても、ピアノだけはやめられなかった。  ただ、ピアノを長く続けていれば、楽しいことばかりではない。思うように結果が出なくて辛いこともあるし、自分より才能のある人の演奏を聞いて落ち込むこともあった。だからこそ、コンクールでいい演奏できた時や、先生に褒められた時の喜びは、何物にも代えがたかった。  いつしか深優は、ピアニストになりたいと思うようになっていた。  そのための努力は惜しまなかったし、許される時間のすべてをピアノへ奉げた。友人がバイトや恋愛、サークルの話で盛り上がっていても、深優はピアノ中心の生活を苦しいとも思わなかったし、やめようとも思わなかった。それが自分の生き方だと信じ、疑いもしなかったのだ。  しかし、深優の表情は曇る。 「飛行機事故を予見していたわけでは無いでしょうけど、今となってはおじいちゃんが正しかったのかも。……おじいちゃんは亡くなるまで、私が音楽の道に進むのを反対していたんです。私がニューヨークに行くのも反対だって……。それがずっと気になっていました。今頃は天国で呆れているでしょうね、私のこと。それ見たことかって」  そう言うと、深優は寂しそうに笑った。
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