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祖父の言う通りにしていれば――夢を夢のまま諦めていれば、死ぬこともなかったのだろうか。今となっては分からない。ただ、人生も夢も失い、心の中にはぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
好きなピアノに、思う存分打ち込んだのだ。やれるだけのことは全てやったせいか、自分でも驚くほど後悔は残っていない。それでも、すきま風が吹き抜けるような虚無感は、埋めようがなかった。
「なるほど……少々お待ちください」
《言伝屋》は立ち上がると、店の奥へ通じる引き戸を開け、中へと入っていった。
店に残された深優が、どうしたものかと戸惑っていると、《言伝屋》はものの数分で戻って来た。何をしてきたのだろうと思い、その手元を見ると、海老茶色の封筒がお盆に載せられていた。
《言伝屋》はそれをすっと両手で差し出した。
「金井深優さん、金井武雄さんから言伝です」
「え……おじいちゃんから……?」
封筒に書かれた『深優へ』という文字を見て、深優の心臓がどきりと跳ねる。封筒を受け取り、はやる心を抑えながら開けてみると、中から丁寧に四つ折りにされた半紙が出てきた。
何だろう。言伝というからには、手紙だろうか。深優は半紙を開くと、墨で書かれた流暢な字を目で追った。そして不意に半紙から顔を上げると、くすくすと笑い始めてしまった。
「どうかしましたか?」
《言伝屋》が少し驚いたように眼を見開くと、深優は笑いながらも、ごめんなさい、と言い添える。
「おじいちゃんってば……『ニューヨークの冬は冷えるから、絶対腹は出して寝るな』ですって……! 小さい頃、それでお腹を壊したことがあったんです。もう子どもじゃないんだから、さすがにお腹を出して寝たりしないわよ」
ひとしきり笑った後、ポツリと深優は呟く。
「これ、おじいちゃんの字です。間違いありません。年賀状で見た覚えがあるから……丁寧で、きちっとした字。おじいちゃん、最後には許してくれたのかな……」
不意に深優の大きな瞳が涙で潤むと、波立った。それは長い冬を終え、温かい春の光を受けて輝く川面のように、きらめいていた。
「私、間違ってなかったんですよね? 夢は叶わなかったけど……夢を叶えようって努力した日々は間違ってなんかないですよね?」
《言伝屋》は「ええ」と、静かに頷く。
「少なくとも金井武雄さんは、そう思っていらっしゃったのではありませんか?」
深優は嬉しそうにふわりと微笑んだ。金井武雄の残した言伝を握りしめながら。
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