幻朧街(げんろうがい)後半

4/4
前へ
/54ページ
次へ
「祖父の手紙……貰ってもいいですか?」 「ええどうぞ。何か言伝を残していかれますか?」 「えっと……じゃあ、お父さんとお母さんに」  《言伝屋》が硯一式を用意すると、深優は店の中央にあるテーブルに座った。何を書こうか考え込んでいたが、ふと思いついたように口を開いた。 「あの……お手紙を二つ残すことは可能ですか?」 「いえ。言伝は一人ひとつと決まっています。ただ、ひとつの言伝を複数の方にお見せすることはできますよ」  「じゃあ……それでお願いします」  深優はぎこちない仕草で筆の毛先に墨を吸い込ませると、丁寧に文章を綴ってゆく。慣れない毛筆に苦戦するものの、だからこそ心を込めて言伝を書けるような気がした。  やがて言伝を書き終えると、半紙を折り畳んで海老茶色の封筒に入れた。《言伝屋》はそれを両手で丁寧に受け取った。 「確かに、お預かりしました」  もう、思い残すことは無い。じわりと胸に押し寄せる、温かな満足感に身を任せていると、深優は言い知れぬ切なさに襲われた。  ああ、これで終わりなんだ。私の人生。夢だったピアニスト。大好きだった人たち。  すべてが、これでお仕舞い。  それは決して苦しいことではなく、思わず口元に笑みが零れるほど、深優を幸せな心地にしてくれた。  言伝屋を後にしようとした深優は、ふと気づいたように《言伝屋》を振り返った。 「ところで……私はこれからどこに行けばいいのでしょう?」  すると、店の主は通りの方を手で指し示しながら、教えてくれた。 「この通りを左に真っ直ぐ行くと、門が見えます。それがこの街の出口ですよ」  手の先へと視線を向けた深優は、再び《言伝屋》を振り返った。 「分かりました。あの……あなたのお名前を教えて貰ってもいいですか?」  深優の仕草に合わせて、柔らかい髪が揺れる。《言伝屋》に興味が湧いたというより、ただ、知っておきたかったのだ。金井深優という魂に、最後に接してくれた人の名前を。ただ、聞いておきたかった。  名を尋ねられた《言伝屋》は、少し戸惑ったようだった。客の対応にはこなれているものの、名を聞かれることは滅多にないのだろう。  しばらく深優をじっと見つめていたが、ぽつりと口を開く。 「……私ですか。不知火幽幻(しらぬい・ゆうげん)、といいます」  それを聞いた深優は、思わず笑顔になっていた。 「幽幻さんですか………本当に、ありがとうございました」  そして《言伝屋》に向かって丁寧に一礼すると、今度は一度も振り返ることなく、店を出ていった。  儚い妖精のようなうしろ姿が、街に溶けるようにして消えていく。彼女もまた、二度と幻朧街に戻ることは無い。  今まで同じ光景を見つめ続けてきた《言伝屋》の主は、それをよく知っていた。  何度も、何度も――それこそ気の遠くなるほど。  金井深優を見送った後、《言伝屋》は入り口近くの座敷へと戻った。そして煙草盆に引っ掛けておいた煙管を取り出して、火をつける。 「……さて、次はどんなお客人がいらっしゃるのでしょうね」  ここは幻朧街。  夢と現の狭間、此方と彼方、此岸と彼岸の狭間にある街。  死者が訪れ、そして去っていく街。
/54ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加