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ありがとう
廊下を歩いていて
「ありがとう」と声がした
振り向くと二人の生徒がニコニコ笑っていて
片方は「どういたしまして」と言っていた
私は悲しくなった
今まで「ありがとう」なんて言われたことないよ
手伝っても頑張っても そんなの言われたことないよ
いつもうつむいて帰っていた
いつも下向いて登校してた
いつも誰の顔も見ないように過ごしてた
話しかけられても 緊張して怖くて 本当に何も言えなかった
皆は何も言わなかった
時々嫌な顔をしたけど 何も言わなかった
親も何も言わなかった
私がうつむいていることを知らないから
先生も何も言わなかった
多分 私に関わりたくないから
自分のつま先を見て歩いた
誰からも傷つけられたくなくて
誰の顔も見たくなくて
誰の声も聞きたくなくて
ありがとうって
有難うって
有ることが難しいんだから
そう簡単に言われていいものではないと私は思う
今まで誰からもお礼を言われたことがなかったけど
私から言ったことも一度もなかった
言われたことがないことは何とも思わなかった
ありがとうって
私みたいな人付き合いの悪い人間に
私みたいな臆病な人間に
私みたいな何もしない人間に
言われていい言葉じゃない
ある下校中だった
お婆さんが大きな荷物を持っていて
私は迷った 怖かった
手伝いたかった
「そんな年じゃない」って怒られたらどうしよう
大事なものが入っていて
私が運んでいる途中に壊れたらどうしよう
私は迷った
怖かった
私はお婆さんを泣きそうな目で見ていた
その時私は
自分が誰かを 誰かの顔を 見ているということに気づいた
今までうつむいていた自分が 誰かを見ているということに気づいた
また少し迷ったけど 思い切ってそばに寄った
荷物を持ってあげた
お婆さんに「もういいよ」と言われたところまで運ぶと
お婆さんは「ありがとう」と言った
歯の少ない口を優しく緩めて
穏やかで平和な目を嬉しそうに細めて
お婆さんは「ありがとう」と言った
この人は私に有難うと言ったの?
頭の中が真っ白で「どういたしまして」が出てこなかった
「本当にありがとう」
ゆっくり一文字一文字区切るように
お婆さんはもう一度そう言ってくれた
柔らかい心地よい声が 初めて言われる言葉を紡ぐ
私は目を丸くしていた
学校でも通学路でも外出先でもよく耳にする言葉が
自分が言われるとこんなにも素敵な言葉だったなんて
こんなにも優しい響きの言葉だったなんて
こんなにも美しい言葉だったなんて
「ありがとうございます」
私はそう言った
唇がムズムズした
お婆さんはちょっと驚いた顔をしたけど
にっこり笑って歩いて行った
その後ろ姿を見ながら
私は「ありがとう」という言葉を思い出していた
平和で優しい言葉だった ……お婆さんみたいな
私はようやく気が付いた
私は人にお礼を言われた!
ビックリしたけど嬉しくてたまらなくて
ニコニコしながら家に帰った
次の日になって 私はクラスの子にハンカチを拾ってもらった
目を見て「ありがとう」と言うと
クラスの子は当たり前のように「どいういたしまして」と言った
……当たり前のように?
私はその日一日周りを見て
周りが当たり前のように「ありがとう」と言い
当たり前のように「どういたしまして」と言っていることを知った
今まで何度も聞いていたはずなのに 初めて気づいた
私は今度は同じ子にお礼を言われた
その子が零した水を拭いてあげたからだった
「ありがとう」
サラリと言われたけど聞き逃すはずがないほど くっきりとした言葉だった
しっかりとしているけど柔らかい言葉だった
まるでその子みたいな
私はまた気づいた
「ありがとう」には「その人」が込められていることに
「その人の心」ではなく「その人自身」が
「ありがとう」に詰まっていることに
「どういたしまして」
今度はちゃんと言えた
私は笑った
たとえ有ることが難しくても
ちょっぴり勇気を出せば簡単に言える言葉に
人は自分をこめている
たとえ有ることが難しくても
臆病だろうと何もしないだろうと
言われないと決まっているなんてことはない
誰にでも言われるチャンスはあり
誰にでも言う権利のある言葉
それは本当に優しい言葉の欠片
____言葉はいつでも人と共に
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