第63話 宇宙の色

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 インドネシアの通過単位はルピアだ。一ルピアは約0.0075円。むしろ、千ルピア八円と覚えおくほうが計算がラクだ。  インドネシアで最高額の紙幣、通称赤札でさえ、十万ルピアというと、なんだかすごい額に思えるが、じっさいは八百円ほど。  龍郎たちは現地の物価状況がよくわからないので、一日中貸し切りで案内してもらうお礼にと、八千円のつもりで、十万ルピア札十枚をアグンのお父さんに渡したのだが、なんだか異様に喜んでいた。相場より、だいぶ割りのいい仕事だったのかもしれない。  お父さんのセダンで、アグンが穂村先生を国際空港まで送り届けに行ったため、乗り物は昨日のワゴン車だ。しかし、客四人、ドライバー一人の五人乗りにはちょうどいい。  テガララン村のライステラスをのんびりと散策したのち、昨日から清美のさわいでいたゴアガジャ遺跡に行くことになった。  このあたりには車で十数分で行ける寺院や美術館、王宮など、観光スポットが集中しているので、そのあとの予定もつまっている。  ゴアガジャ遺跡の入場料は一万五千ルピア。つまり、日本円にして百二十円。  ゴアガジャとは象の洞窟、または巨大な洞窟という意味で、十一世紀ごろの遺跡らしいが、なんのために造られたのかわかっていないという。  その手前に、千九百五十四年に発見された女神の像の沐浴場があった。  おそらく僧侶が沐浴し、瞑想などしたのだろうと言われている。  神聖な場所なので、肌の露出の高い服装は禁止だ。  青蘭がTシャツに短パンという龍郎的悩殺スタイルだったので、サロンという巻きスカートのような腰布を買った。青い色がとてもきれいな、ろうけつ染めだ。 「似合う? 龍郎さん」 「う、うん」  似合うか似合わないかで言えば、青蘭に似合わない服装なんて、めったにない。  青蘭はこの世でもっとも美しい人だ。なにしろ、天界一の美貌とうたわれた智天使の生まれ変わりなのだから。  みがかれた大理石のように白くすべらかな肌。  長い睫毛(まつげ)のさきに翳りのたゆたう物憂い双眸。  情感ゆたかな赤い唇。  白皙は天使のころのままの完璧な造作。  しなやかな肢体の青蘭。  バリではサロンは男女兼用だが、青蘭がまとうと、どこから見てもスレンダーな美女にしか見えない。それも、とびっきりの美女だ。  そんな青蘭が東洋的でありながら異国情緒たっぷりの沐浴場を歩いていると、遺跡に宿る女神の魂が、気まぐれに人の姿を借りて、こっそり迷いこんだかのようだ。  自分の恋人にウットリ見とれて、沐浴場の前を歩いていった。  日本人の姿は少ないが、ヨーロピアンとおぼしき観光客の姿はあった。青蘭が歩くと、どの人もふりかえっていく。 「わあっ、青蘭さん、龍郎さん。見てくださいよぉ。迫力ですねぇ。あれが悪魔の口かぁ。怖いですね」 「清美さん。正確には魔女ランダの口ですよ」 「へぇ。そうなんですねぇ。でも、神父さん。わたしは龍郎さん派ですから!」  にぎやかな外野がいることはいるが、それでもロマンチックな気分になれた。  野獣のような彫刻の大きくあいた口が洞窟への入口だ。  龍郎たちは大小の獣が寄り集まった彫刻の中央をくぐって、洞窟へ入る。  なんだか丸い石が三つ飾られている。リンガという。それがヒンズー教の神、シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマを表しているらしい。カラフルな布を巻かれていることもあって、なんとなくお地蔵さんのようだ。  そのすぐよこに、ガネーシャの像もあった。ガネーシャはシヴァ神の息子で商売の神様である。体は人間だが頭は象だ。夫婦喧嘩で怒ったシヴァ神が息子の首をはねたせいで、象の首とつけかえられてしまったのだという。シヴァ神は破壊の神だから、逸話も激しい。飛行機で七時間、時差も一時間しかないバリは、海外にしては日本から近いほうだが、そんな話を聞くと、やはり南国なのだなと思う。秘められた情熱を感じる。 「神様もみんな、サロンつけてるんだね。可愛いな」 「龍郎さんもおそろいの買ったら?」 「おれは似合わないよ」  青蘭と耳元でささやきながら、ふとそのとき、となりでシヴァ神などのリンガを見ている女に目が止まった。美人だから、ではない。  いや、美人は美人だ。  男のように背が高く、ふわっとしたゆるいパーマの黒髪を長くなびかせている。龍郎の位置からはよこ顔が見えた。鼻筋の通った西洋風の顔立ちだ。肌は褐色で、一瞬、ルリムかと思った。だが、もちろん違う。ふんいきが異なる。  それにしても、なんだか不気味な女だ。よこ顔しか見えないので瞳の色はよくわからないが、気のせいか、妙に虹彩のあたりがグルグル渦巻いている。 「……龍郎さん?」  気づくと、青蘭が厳しい目をして龍郎をにらんでいた。龍郎が別の女に惹かれていると勘違いしたらしい。 「なっ、違うよ。そういうんじゃないから」 「じゃあ、どういうの?」 「えっ、いや、ちょっと。そろそろ外に出ようか」 「ごまかすの?」 「いやいや。おれが好きなのは青蘭だけだって」 「ふうん?」  あわてて外に出る。  女は食い入るようにリンガをながめていたから、龍郎たちの挙動を気にしたようではなかった。追ってもこないし、ただの観光客だろう。  だが、しばらく、洞窟のまわりを見物していたときだ。ふたたび、あの女に遭遇した。  バリの寺院には必ずあるという割れ門の前だった。複雑な三重の塔をまんなかから引き裂いたような形の二つの柱が割れ門である。邪悪なものがそのあいだを通ると門が閉じると言われている。  その門の前にさっきの女が立っていた。  ふつう、その門を見ようとすれば、あたりまえの人間なら門に向きあってまっすぐ立つ。つまり、門の正面にいる龍郎の位置からは、うしろ姿が見えるはずだ。  なのに、女はまた、よこ顔を見せていた。女からは割れ門の片方しか見えていないはずだ。  なんだか異様だった。  門は左右対称だから、どちらかの門だけを、間近で細部まで観察したいと思う人は少ないだろう。魔女ランダの口のように細かな動物の顔が、たくさん刻まれているわけでもない。  それだけでも変わった人だなと眉をしかめるには充分だった。だが、女はそのあと、さらに奇妙なことをした。  割れ門のあいだを横向きのまま通ろうとしたのだ。(かに)のように横這いで歩いたのである。  決して広い門ではないものの、横向きでなければ通れないほど狭くはない。女は不自然にキコキコと小刻みに横歩きして、門のはざまをくぐる。  すると、目の錯覚だったのだろうか?  とつぜん、ガン!——と衝撃音が響きわたり、二つの柱がぶつかりあった。  門が閉じた。  邪悪なものが通るとき、閉ざされるという門が……。
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