第64話 地獄の犬

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 ヌルワンは自宅の床のなかでうなされていた。とても話のできる状態ではない。  でも、悪夢に浮かされるのか、妙なことをときどき口走る。ジャワ語なので、龍郎には意味が解せないが、アグンに通訳してもらった。 『半分の女が』『石が……石が』などと言っているようだ。  そのなかで、アグンには気になる言葉があるとのこと。 「今は言いません。さっき、私一人のとき言いました。『ナシルディン、おまえか?』と言ったのです」 「ナシルディン、ですか? 人の名前ですよね?」  アグンはうなずき、説明してくれた。 「この村は小さいので、同世代の子どもはみんな幼なじみです。ヌルワンと私もそうですね。幼なじみのなかに、ナシルディンという男もいたのです。プトリはナシルディンと結婚の約束をしていました」  薄暗い小さな土間の寝室。  心配そうな顔つきで看病する妻。  うなされる病人を前に、アグンは深刻な口調で語る。 「プトリは、英雄さんの妹の?」 「そうです。妹のプトリです」 「約束をしていました、ということは、今は違うんですか?」 「はい。ナシルディンが行方不明になってしまったからですね」 「行方不明……」  ヌルワンの言葉は高熱のせいで、ナシルディンの行方とはなんの関係もないかもしれない。だが、妹の婚約者であり幼なじみのことでもある。アグンは気になっているようだ。 「ナシルディンさんは、なぜ姿を消したんですか? いなくなる前にようすが変だったとか、心当たりはありますか?」 「私はないです。ナシルディンは村のなかでも一等、頭のいい男でした。インドネシア大学にもいっしょに通った。私は平凡ですが、彼はとてもとても優秀でした。アインシュタインの相対性理論の研究をしていました」  つまり、時間の研究ということか。  よほどの秀才だったのだろう。 「プトリさんはどう言っていましたか?」 「わかりません。ナシルディンのことは悲しくなるので話そうとしないです」 「なるほど」 「龍郎さん。ヌルワンは悪魔に憑かれてますね? そのヌルワンの口からナシルディンの名前が出るなんて不吉です。ナシルディンも悪魔に憑かれて……それでいなくなったのですか?」  龍郎には答えることができない。  断言するには、あまりにも情報が少ない。 「ナシルディンさんのことは、今はまだなんとも言えません。ただ、ヌルワンさんは治せるかもしれない」 「ほんとですか?」  室内を見て、ひとめでわかった。  瘴気が部屋中によどんでいる。  力の強い悪魔や霊的な存在が放つ邪気だ。ヌルワンはこれに毒されている。 「青蘭。力を貸して。星流さんのロザリオを」 「うん」  青蘭が首からさげた父の形見のロザリオをとりだす。龍郎はロザリオをにぎる青蘭の手に、自分の右手をかさねた。  浄化はこれまでにも何度もしたことがある。ロザリオが一瞬、輝き、あたりに清澄な空気が満ちた。邪気は水流に押し流されるように消えた。  脂汗をかいてウンウンうなっていたヌルワンの呼吸が落ちつく。かたわらで看病していたアグンの姉がひたいに手をあて、ジャワ語で何か言った。 「姉は日本語があまり達者じゃないんです。熱がひいてると言っています」  まもなく、ヌルワンが目をあけた。 「水をくれ。喉がかわいた」と、ヌルワンは言ったようだ。アグンの姉(たしか、アプリアンという名前だった)が急いでコップを渡す。  アグンやアプリアンがひとしきり容体をたずねるが、ヌルワンは笑顔でうなずいている。どうやら心配はなさそうだ。 「もう大丈夫ですね? 昨夜のことを話していただけますか?」  龍郎の言葉は、アグンがヌルワンに伝えてくれる。  この人たちが病気を治してくれたんだぞと、アグンはやや興奮した口調で話したようだ。 「マトゥール・スムバ・ヌウン」と、ヌルワンは感謝を口にしてから話しだした。例のごとくアグンの通訳によると、こんな話だ。  昨晩、ヌルワンは早めに寝た。  ヌルワンはこのへんの男がたいていそうであるように、農業で自給自足している。日没に休み、日の出に起きる。基本、そういう生活だ。  寝室は妻のアプリアンと二人。  夜中にやけに犬の吠え声が聞こえた。  野生の獣をよけるために、番犬として犬を飼ってはいるが、それにしては鳴き声の頭数が多い気がした。  熊でも出たのだろうかと、ヌルワンは考えた。熊がこんなに人家の近くまで来ることは少ないが、畑のそばではたまに見かける。追いはらってやろうと思い、ヌルワンは鉄の鍋とオタマを持って外に出た。野生の動物は大きな音を立てると、たいてい逃げていく。  バリ島の熊はマレーグマだ。  クマ科の最小種である。成獣でも体長一メートルから一メートル半と小さい。凶暴性も低いので、日本のツキノワグマとは現地の人の熊に対する印象は大きく異なる。  ヌルワンもたいして大事には思わず、外に出ていった。すると、犬の吠え声は敷地の外から聞こえた。  やはり畑かもしれないと考え、ヌルワンは門のほうへ歩いた。  暗がりのなか、門まで来ると、そこに人影があった。おどろいて、ヌルワンは立ちどまった。  女がそこに立っている。門の前、邪気を払うという衝立(ついたて)と対峙するように女はなかをのぞいている。  ヌルワンの位置からはよこ顔が見えた。 「あんた、なんだね? この夜中にどうかしたのか?」  たずねると、女はこう言った。 「わたしの半分を返して」 「半分? なんのことだ?」 「あなたたちがわたしを半分に切りわけたでしょ? 返さないと呪う」 「だから、何を言ってるんだ? わけがわからない」  女は沈黙し、ヌルワンをふりかえった。そのおもてには半分がなく……。  そこからは龍郎の体験と同じだ。  龍郎は霊や悪魔を見なれているから寝こみはしなかったが、一般人なら気絶してもしかたない。  ヌルワンは気が遠くなり、気づいたときには女はいなくなっていた。急いで寝室に戻ったが、妙な寒気がして、そのあとのことは覚えていない。 「ヌルワンさん。あなたが熱を出しているあいだに、幼なじみのナシルディンさんのことを口走っていたらしいんです。なぜかわかりますか?」  ヌルワンはうなずいた。 「夢のなかにナシルディンが出てきたよ。あの女に絶対、あれを渡すなって言うんだ。あれってなんのことだと聞くと、石だと言った。あの女に渡すと悪いことが起こると」 「石……隕石ですね」 「そうかもしれない」  いや、間違いなく、あの隕石のことだ。半分に割られた隕石。半分の体の女。奇妙な光。これらの共通点は無視できない。  石の半分を所持していた教授は殺された。昨晩の女は呪うと告げているし、これ以上、ヌルワンに隕石を持たせておくのは危険だと判断した。 「あの隕石ですが、譲ってもらうことはできますか? 謝礼はもちろん払います。一千万ルピア——いや、三千万ルピアでいかがですか?」  三千万ルピアなら、日本円にして約二十四万円。日本人でもちょっと嬉しい金額だ。ヌルワンは一も二もなく了承した。  ケースに入った隕石が家庭の寺から運ばれてくる。先日、見たときと変わりはない。ケースのまんなかに半分に切断された石がおさまっている。  財布のなかに百万ルピアしかなかったので、あとで必ず残額も払うからと約束して譲り受けた。  ドゥウィに送られてホテルに帰った。 「今日はホテルでゆっくりしようか。この石があるしさ」 「うん」  寝室のナイトテーブルの上にケースを置いた。  これでひと安心……と思ったのだが?
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