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「世の中には、望むと望まざると異端に生まれつく者たちがいる。千差万別の性質を持ったそれらの者たちにも、唯一共通する事柄がある。つまり、皆ひとしく孤独であるということだ」
整いすぎて熱を感じない顔で、一狼は言う。
「異質さゆえに、他者とのつながりを持てない異端者たち。彼らを守り、身体と精神の安寧をはかるのが『盾』の存在意義だ」
「…………。私は、その異端者に入るんですね」
普通のひととの違いをまっすぐに突き付けられたようで、千鶴は絶望的につぶやく。一狼は軽くうなずいた。
「そうだ。ちづさんも気づいているだろう。あなたは強力な霊媒体質だ」
「はい?」
そっちの事情を指摘されるとは思わなかった。
無戸籍状態だった二十年にくらべて、霊能力は千鶴にとって大した問題ではなかった。むしろ、この力のおかげで今も祖母とつながっていられる。
「俺は『盾』の構成員として、異能者であるあなたの身辺警護と、監視の任を担っている。作戦行動の円滑な遂行のために、あなたと婚姻関係を結びたい」
一狼は流れるように滑らかに言って、テーブルの上に薄い紙を置いた。
「署名を」
無機質な文字の羅列が、千鶴の脳裏をかすめていく。味気ない印字のなかで、『日生一狼』と丁寧に記された手跡だけが温かみを帯びていた。生年月日から、彼の年齢は千鶴より四つ上だとわかる。
もう少し年上だと思っていた。余裕のある微笑みや、どこか品のある立ち居振る舞い、それにとめどなく溢れる謎の自信がそう感じさせたのだろうか。
一狼の署名の隣、空欄になっている箇所を見て千鶴は身震いした。きっと、ここに名前を書いたら最後、もう逃げられない。
「俺はあなたに庇護を与えると言っている。あなたが最低限の務めをはたすなら、この家で自由にしてくれてかまわない。悪くない条件だ、何を迷う?」
不思議でならないという一狼の表情に、千鶴は眉をひそめた。
「……わからないことが多すぎます。日生さんのお仕事についてはわかりました。でも、なぜそのために結婚をしなければならないんですか?」
千鶴は今まで、法律というものの外にいた。けれど今、戸籍を手に入れ、法治国家に生きる人間としてわかったことがある。
権利には、義務が発生するものだ。
結婚という社会的行為にも、きっと何らかの義務が生じるはず。そういったものに縛られるのは、一狼には重荷になるのではないだろうか。
その不自由さを差し置いてまで結婚という形をとるには、何かほかの思惑があるとしか思えなかった。
拙い言葉で自分のもつ不審感を説明すると、一狼はまじまじと千鶴を見つめた。深い色の瞳がおもしろそうに輝いている。
「なるほど。あなたは教育を受けていないと聞いていたが、なかなか賢い」
値踏みするような視線をうけて、頬にかっと朱がのぼった。
彼は、千鶴が何も知らないことをわかっているのだ。侮られていると思うと、劣等感が身を苛む。
「ちづさんの言うとおりだ。俺はこの結婚で『盾』内での立場を確立したい」
おおらかに見えていた一狼の微笑みに、抜け目のない狡猾な色が差した。
「先にも言った通り、ちづさんの父親は『盾』の幹部的立ち位置にいる人物だ。その娘であるあなたと婚姻関係を結び、血裔を残すことは俺の利になる。俺は『盾』での強い発言権が欲しい」
わかるか? と悪びれた様子もなく尋ねられ、千鶴はおずおずとうなずいた。
つまり彼は、千鶴の父の権威を利用したいと言っているのだろう。
「よし、俺の事情はわかったな。わかったなら早く署名を」
有無を言わせぬ迫力の笑顔に、けれど千鶴は怯えながら反抗した。
「け、結婚は、こんな風に簡単に決めるものじゃないと思います」
「簡単ではない、熟慮した」
嘘だ、と叫びたくなる衝動を、千鶴は唇を引き結んでこらえる。
熟慮したならなおさら、自分と結婚したいなどと言えるはずがない。そう思ってしまう卑屈さに悔し涙がにじむ。泣くものかと目もとに力をこめた千鶴を、一狼は不思議そうにながめた。
「なぜ睨む? あなたの優しい目で威嚇されても俺は何の痛痒も感じない。……言いたくはないが、ちづさんは甘い。あなたのような非力な女性がこの国でひとり生きていくのはそれほど簡単なことか? あなたのほうこそよく考えてみるといい」
まっとうな言葉ほど、千鶴のふさぎきっていない傷痕をえぐっていく。
それでも、千鶴はどうしても目の前の書類にサインをすることができなかった。
破綻した婚姻関係がどんなものを生み出すか、千鶴は身をもって知っている。千鶴や弟のような行き場のない子どもを増やしたくはなかった。
「ちづさん。あなたの選択肢は多くない。俺の妻になるか孤独に生きるか、どちらかだ」
穏やかな声が冷徹に告げる。
もし、彼の手を振り払ったならどうなるだろう。
きっと、千鶴は身一つで放り出される。それどころか、与えられた戸籍すらとりあげられるかもしれない。
お世話になった弁護士さんは、一狼とつながっていた。おそらくは、祖母に頼まれて千鶴たちの後見人になったというのは方便で、一狼の所属する『盾』という組織から派遣されていたのだろう。周到さに寒気を覚える。
なにより千鶴を震え上がらせたのは、自分の選択しだいでは弟にも類が及ぶかもしれないということだった。せっかく人並みの幸せが手に入ったばかりなのに……。
(それだけは、ぜったいに駄目……!)
千鶴は、書類に添えられたペンを感覚のない指で握った。気を抜くと歪んでしまいそうになる文字を、ひとつひとつ書き記していく。
時間をかけてやっと書き上がった書類を、一狼は満足そうに受け取った。
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