ところで、結婚しよう

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「無理、できない、あなたはそればかりだ」 「でも……、その、私は男のひとには触れられません」 「なぜ?」 「異能を失ってしまうかもしれないんです」  そうなったら、きっと『盾』から派遣されている一狼も困るはず。『盾』の目的は異端者の保護なのだから。  けれど、すがるような千鶴の意見は一笑に付された。 「そんなもの、触れてみなければわからない。それに、たとえあなたが異能を失っても俺は一向にかまわない」  言葉も出なかった。  つまり、彼は千鶴が『盾』の保護対象から外れて露頭に迷っても良いと思っているのだ。千鶴の進退など、どうでも良いと……。 「……関心がないのなら、どうぞ放っておいてください」  書類上だけの妻でいたい。同衾以外の仕事はしっかりと務めるから、なんでもするから、それだけは許してほしい。  頑なに拒否の姿勢をくずさない千鶴を、表情をかげらせた一狼が見つめている。どこか途方に暮れたようにため息をつき、疲れの滲んだ声で言う。 「そんなに俺の妻になるのが嫌か? 夫婦がともに寝るのは当たり前のことだ。妻に触れられない夫は憐れなものだろう」  一狼の言っていることの意味はわかる。けれどそれは愛情で結ばれた正しい夫婦の話だ。千鶴と一狼のように、強制的に結ばれた関係でのそれは、不道徳でしかない。 「わ、私は、どこか違うお部屋を借りさせていただきます」 「残念だが、この部屋以外に寝具はない」  薄い唇をゆがめて一狼が言う。皮肉めいた笑みに怯みながらも千鶴は言葉を重ねた。 「大丈夫です、床で寝ますから」 「それは凍える」  一狼が怪訝そうに眉をひそめる。余裕のない千鶴は、彼の揺れる目に気づくことができなかった。 「かまいません」  そのひと言の、何がそんなに気に障ったのか。  一狼の黒い瞳から、さっと熱が消え去った。かわりに表れたのは、氷のように鋭い怒りだった。 「俺の妻になるより、死んだほうがましだと……?」 「…………え?」  そんなことを言ったつもりはなかった。けれど、千鶴の胸に渦巻く耐えがたい嫌悪感を、一狼は敏感に嗅ぎとったのかもしれない。  激しい怒気にさらされて、千鶴はすくみあがった。今までの会話のなかで、千鶴の態度に一狼が困惑を表すことはあっても、これほど激情をあらわにすることはなかった。 「なるほど、了解した。文化的なこの国の人間であるあなたは、北の地の野蛮人に触れられるのは死にも勝る屈辱だと言いたいらしい」 「……違っ」  一狼が何を言っているのかわからず、千鶴は焦る。  たしかに異性に対しては不当な嫌悪感をおぼえてしまうけれど、それは一狼に限ったことではなく、彼を侮辱しているつもりはなかった。  言葉を継ごうとする千鶴を許さず、一狼は剣呑な光が宿った目で彼女を射すくめた。 「あなたの意見も理解も、もう求めない」  唸るように言って、一狼は指先に滲んだままの血を舐める。その仕草は獲物を捕食する肉食獣のようで、千鶴はぞっと総身が冷えるのを感じた。 (私が何か失礼なことを言ったから……、だからこんなに怒らせてしまったんだわ)  震えながら後悔する。けれど、もう遅い。  容赦のない激しさで腕をつかまれそうになり、千鶴は反射的に身をそらす。横座りに崩れた姿勢で見上げると、精悍な顔を険しくゆがめた一狼と目があった。わずかの間にらみあった末、先に視線を逸らしたのは一狼のほうだった。 「瞼を閉じろ。その目で俺を見るな」  低く命じられる。あきらめとともに覚悟を決めて、千鶴は一度うつむいた。 「自分の足で歩けます」  決然と顔をあげ、震える足でベッドへ近づく。控えめに身体を横たえた寝具は信じられないくらいやわらかく、こんなときでなければ幸福感につつまれただろうと思う。  恐怖に耐えるため、千鶴はきつく目を閉じた。すぐそばに、一狼の身体がもぐりこむ気配がする。自分のものとは違う熱を感じ、鼓動が早鐘のように高鳴りはじめる。  一狼に背を向け、千鶴はぎゅっと身を縮めた。緊張でこわばったつま先に、一狼の足先がかすめるように触れる。それだけで千鶴は小さく悲鳴をあげた。 「…………。冷たい。本当に寒がりなんだな、あなたは」  独り言のように一狼がつぶやいた。それきり、声を掛けられることはなかった。千鶴は息を殺し、何かが起きるのを待つ。やがて規則正しい寝息が隣から聞こえはじめた。 (寝ているの……?)  振り向いて確認する勇気はなかった。  ベッドは広く、長身の一狼と小柄な千鶴が横になっても、二人の間にはまだ余裕がある。彼が本当に何もする気がないと信じられる頃になって、千鶴はちいさく吐息をついた。  安堵したものの、この状況では眠れそうにない。  千鶴は目を閉じたまま、一晩じゅう自分の夫になったひとの寝息に耳を澄ませていた。
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