梅おにぎりからはじまる共同生活

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(……どうしよう。と、とにかく、お米! ご飯を炊こう! 白米があればすべてはなんとかなるわ!)  千鶴はわたわたと挙動不審になりながら、小走りで寝室へもどる。眠れる黒い狼を起こさないよう警戒しながら、段ボールの中身を探った。  私物のなかから、両手持ちのお鍋と、ビニール袋に入ったお米を取り出し、大事に胸にかかえてキッチンへ立つ。  実家の米びつから掻き集めてきた、お米1合。やさしく研いで、冷水に浸す。  とちゅうでふと、成人男性の朝ごはんがお米1合で足りるのかと、千鶴は首をかしげた。まったく予想がつかない。  育ち盛りの弟は、伸びてきた背に反して食が細かった。手足もひょろひょろしていて、まったく一狼とは似ていない。目安にはならないだろう。  いくら考えてもわからないし、そもそもお米はこれだけしかない。実家から持ち出した、なけなしの食糧なのだ。その実家も、今ごろは取り壊し作業の最中のはずだ。  退路を断たれた千鶴は、きりりと気を引きしめる。  お米の浸水時間のあいだ、洗濯にとりかかった。 (これは……! まさかの二層式じゃない洗濯機!)  広い洗面所に鎮座する、ドラム式乾燥機付き洗濯機。丁寧に一度拝んでから、千鶴は洗濯物を一気に投げ込む。本当は洗濯籠の内容物を確認したかったけれど、そんな度胸は湧いてこなかった。昨日会ったばかりの男のひとの下着なんて直視できない。  洗濯機が順調に回りだしたのを確認して、キッチンへもどる。気を抜くと、いつまでもドラムが回転するのをながめてしまいそうだった。  使いこんだ鍋でお米を炊きはじめれば、ダイニングにふっくらとした良い匂いがただよいはじめる。ふつ、ふつと鍋が泡をふく音が、千鶴をいつもの朝に引き戻した。  やがて炊きあがったご飯で、ふんわりとおにぎりを握る。すこし硬めの水加減で炊いたご飯はもちもちで、千鶴の指先でまるっこい三角形に整えられた。具材は、実家から瓶ごと持ってきた梅干しのみだけれど、なんとか朝ごはんらしいものができあがった。  食器棚にはお皿一枚見あたらないので、私物の平皿におにぎりを並べてダイニングテーブルに載せる。ラップなんてもちろんない。ご飯がかぴかぴになる前に、一刻も早く一狼を起こすべきなのか悩んでしまう。 (もうすぐ七時……。もう起きていらっしゃるかしら)  一狼の生活習慣がまったくわからない。  あやしい組織の構成員だと説明をうけたけれど、普段はなにをしているのだろう。  千鶴はぼんやりと考え事をしながら、洗濯機から洗いたての衣類を取り出していく。 「すごいわ、全自動洗濯機」  洗剤がなくても綺麗に洗いあがる。洗濯用洗剤がなかっただけなのだけれど。 「給湯器、IHクッキングヒーター、製氷機能付き冷蔵庫、全自動食洗器……」 「おはよう、ちづさん」 「ここは……、もしかして近未来都市?」 「……ちづさん?」  低い声で呼びかけられて、千鶴はぎくりと肩をふるわせた。 「お、お、おひゃようございます……!」  うわずった声であいさつを返し、ついでに持っていた一狼の衣類を後ろ手に隠す。  うろたえる千鶴を不思議そうに見下ろす一狼は、寝起きだというのにすっきりとして見えた。ただ、やはり上半身は何も身に着けていない。もう、このひとは半裸が常態だと思ってあきらめるしかないと、千鶴はこっそり覚悟を決めた。  昨日は自尊心の塊のようだった一狼の態度に、どこか精彩がない。千鶴からするりと視線を逸らした目にも、覇気がうかがえなかった。  あきらかに不本意そうな表情。  きっと、昨夜の怒りがおさまらないのだろう。 (生意気だとはよく言われていたけれど……。日生さんも、私があまりにも可愛げがないから怒っているのね)  以前働いていた工場で、黙々と仕事をこなす自分に対する陰口に気づかなかったわけではない。  ひとと関われば、自分の奇妙な出生が暴かれるかもしれない。好奇の目にさらされる恐怖が、千鶴をがんじがらめに縛っていた。  ぼろを出さないようにと身を固める千鶴を、愛想がない、鼻持ちならないと揶揄する声は少なくなかった。  おそらく、一狼もそう思っているのだろう。  仕事の都合で無理やり結婚させられた女が、こんな不遜な態度をとっていたら、一狼のような矜持の高そうな男性なら怒りを隠せないはずだ。 「……いい匂いがする」  動物のように匂いをかぐ仕草をして、一狼が廊下の向こうのリビングダイニングを見る。元気がなさそうにみえても、どこか人間離れした雰囲気は昨日のままだ。  千鶴は怯える気持ちを不器用に隠して、できるかぎり声を張った。 「朝ごはんのご用意ができています」  おにぎりだけなので、朝ごはんと呼ぶのはおこがましいけれど……。  一狼は軽く首をかしげる。廊下に射しはじめた朝陽に、黒髪がやわらかく照らされていた。 「ちづさんが作ったのか?」 「はい。すみません、お台所を勝手にお借りしました」 「かまわない」  短く応えて、一狼はまだ何か言いたげに千鶴を見下ろす。  その底の見えないような瞳を見ていると、昨夜、抵抗する間もなく髪を切られたことが思い起こされた。瞬間、冷えたつま先から震えがたちのぼってくる。
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