日生家の花嫁

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日生家の花嫁

 糸のように細い秋の雨が、一軒の家のまえに佇む千鶴の髪を濡らしていた。  持っていた傘は、最寄りのバス停で一緒に降車したおじいさんに渡してしまった。千鶴の目的地はバス停から徒歩一分。走れば大して濡れないだろう。それよりも、見るからに足腰が弱った様子のおじいさんのほうが、風邪をひいてしまわないかと気がかりだった。  千鶴は、手もとのメモと目の前の家とを見比べた。  咲丘(さきおか)町一丁目、八番地一。  城下町として栄えた咲丘町の一丁目は、かつては武家屋敷が建ち並んでいたらしい。現在は、しっとりと落ち着いた住宅街だった。  ────日生(ひなせ)家。  メモには几帳面な筆跡でそう記されている。丁寧にふりがな付き。祖母が亡くなったあと、何から何までお世話になった弁護士さんが書いてくれたメモ書きだった。  十九歳だった千鶴と、六歳年下の弟の未成年後見人として、煩雑な仕事を手際よく処理してくれた弁護士さん。彼には本当に感謝の気持ちしかない。祖母の遺品の整理や、千鶴と弟の社会保障に関する法律行為にくわえ、千鶴の新しい職場まで斡旋してくれた。 (せっかく紹介してもらったお仕事だもの、今度こそ失敗しないようにがんばらないと……)  前職は、半年間働いて解雇された。そのときのことを思い出すと、背筋が冷たくこわばる。もう二度と、あんな思いはしたくない。  極度に緊張しながら、メモを頼りにたどり着いた雇用先。古くからの住宅街に佇む、二階建ての一軒家。その門前で、千鶴はぼんやりと立ち尽くしてしまった。  雨の紗のむこうに、瀟洒な西洋風の家屋が建っている。  決して大きな建物ではない。けれど、優美な曲線を描くアーチや、オフホワイトの外壁にあしらわれたレンガ模様、まっ白なバルコニーなど、まるで外国映画に出てきそうな雰囲気の建築物だった。  窓辺のフラワーボックスには今は何の花飾りもないけれど、七色のスミレで彩られたらどれほど可愛らしいだろう。夜になって白い窓にオレンジの灯りがともれば、きっと見ているだけで温かい気持になれるはずだ。  物思いにふけっていた千鶴は、ふと視線を感じて我に返った。  背後からじっとこちらを見つめている何かの気配がある。犬か猫か……、もっと大きな獣のような。 「入らないのか? 濡れる」  千鶴が振り向くより先に、声がかかった。低い男の声。  千鶴はぎくりと心臓を跳ね上げてふり返る。  スーツ姿の男性が、片手を腰にあててこちらをながめていた。一分の隙もない立ち姿は、紳士然としている。なのに、なぜ獣のようだと思ったのか。濡れると警告したわりに、本人はあっけらかんと黒髪に雨を受け止めている。  千鶴は唖然として固まってしまった。 (こんな綺麗なひと、はじめて見たわ……)  印象的なのは、意志の強そうなくっきりとした目もと。やや褐色に近いなめらかな肌に、深い色の髪がおそろしいほど映えている。甘く、端正といえるほど整った顔立ちは、同時に男性的な荒々しさもあわせもっていた。  男が放つ圧倒的な雰囲気に気圧されて、千鶴はぎくしゃくと視線をもとへ戻す。それを追うように家のほうへ目をやった男性は、何気ない調子でたずねてきた。 「気に入ったか?」 「は、はい……」  あまりに冴えた美貌は恐怖に通じるものだと千鶴は思う。答えた声は震えてしまった。けれど、口にした返事は嘘や誤魔化しなどではなく、熱烈な本心だった。  小さな頃から、こんなお伽話に出てくるような家に住むのが夢だった。祖母と弟と三人、雨漏りと隙間風にきしむ古い家のなかで暮らしながら、何度夢想したことか……。 「とても……、とても素敵なお家だと思います」  千鶴の言葉を反芻するようにしばらく黙っていた男性は、不意ににっこりと笑った。飾り気のない朗らかな笑顔だった。まるで、大きな身体の内側からぽかぽかと陽が射しているようだ。  千鶴は、緊張でがちがちに固まっていた自分の身体が、あたたかな温度を取り戻していることに気づいた。と同時に、雨に濡れた感触も思い出して、小さくくしゃみをする。 「風邪をひくまえに中へ入ろう」  何の気負いもなく玄関の門扉を開き、男性は千鶴をうながす。
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