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(このお家の方かしら? それとも雇用主さん?)
どちらにしろ、失礼があってはいけない。千鶴は彼が開けてくれた玄関扉の前で深くお辞儀をした。
「お邪魔いたします」
頭を下げて低くなった視線の先に、濡れた革靴が一組並んでいるのが見えた。グレーのタイルが敷き詰められた三和土には、ほかに靴は置かれていない。どうやらこの家には今、最低でもひとり、家人がいるようだ。
「遠慮は必要ない」
無造作に靴を脱いだ男性は、堂々と廊下を歩いていく。その迷いのない様子を見れば、彼はやはりこの家の住人なのかもしれないと思う。
千鶴はあわてて靴を脱ぎ、上り框に屈んで向きを揃える。ついでに男性の脱いだ靴も整えてから、すでに階段に差しかかっている彼の後を追う。
「あなたの部屋は二階だ。他の荷物はもう届いている」
男性は千鶴の手からごく自然に荷物をさらうと、軽い足取りで階段を上りはじめた。小さなボストンバッグをうっかり手渡してしまってから、千鶴はおおいに焦る。これから雇用主になるひとに自分の荷物を持たせるわけにはいかないし、そこまで人に頼ることにも慣れていない。
「あ、あの……!」
声をかけてから、ふと背後をふり返る。
笑い声がきこえた気がしたのだ。くすくすと、幼い喉を転がすような笑い声。
階段下の柱の陰に、小さな人影がふたつ、こちらを見上げていた。
肩揚げの愛らしい赤い着物の幼女と、黒いパーカにカーキ色のカーゴパンツ姿の少年。
兄妹だろうか。それにしては顔立ちが似ていない。透きとおるように白い肌だけがお揃いだった。
一度瞬きをしたあと、もうそこに二人の姿はなかった。子ども特有の高い笑い声が、さざめくように家の奥へと消えていく。
(このお家に縁のお子さんかしら……?)
小さな子どもたちの、生気の感じられない青い顔を思い出して千鶴は思う。
あの子たちは、この世のものではない。
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