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千鶴のこれまでについて
自分には不思議なものが視えることに気づいたのは、千鶴がまだ物心つくか否かの幼い頃のことだ。
周りの人たちは霊能力だとか千里眼だとか色々な言葉でくくったけれど、母は千鶴の力を霊降りの才と呼んだ。
千鶴のなかの一番古い記憶は、袖を通した白い着物。その、つるつるした感触。おそらくは正絹だったのだろう。
香を焚きしめた、うす闇のなか。
千鶴は、たどたどしい足取りで裳裾を引いて円座に座る。すると御簾のむこうに、誰とも知れない黒い人影が揺れる。あれはあなたの信者だ、と母が言った。
「霊降りの儀、入ります」
吐息がかかるほど間近に控えた母が、耳もとでささやく。
「ゆらゆらと、深く、深く……」
目の前で、小さな灯りが点滅している。規則正しく明滅を繰り返す光を見つめていると、ゆっくりと思考が濁ってくる。つづいて、ふっと自分の体重が軽くなる浮遊感に襲われる。
何かが、幼い千鶴の身体から抜け出ていった。
代わりに、御簾の向こうの人影、その肩辺りにゆらゆらしていた白いものが、千鶴の胸にすうと吸い込まれていく。
そこで、ぷつりと糸が切れる。
千鶴の記憶は真っ黒に途絶えた。
我に返ると、決まって母が「よくがんばりました」と褒めてくれた。めったに千鶴にふれない母が、やさしく頭を撫でてくれる。うれしくてうれしくて、千鶴は自分の身体が自分のものではなくなるかのような不快感に懸命に耐えつづけた。
千鶴が、祖母と弟と一緒に暮らしていたのは、斜めに傾いだような小さな家だった。
屋根や外壁のところどころにトタン板が使われていて、その継ぎ目から雨が染み込んでは、じめっとした湿り気を家内にもたらしていた。
母はこの家には寄りつかなかった。普段は、小綺麗なマンションに設えた降霊所に住み、ときどき思い出したように千鶴たちの様子を伺うため生家へ訪れるのみだった。
娘をご神体として奉った、新興宗教。
母は、砂上の楼閣のようなそれを盛り立てることだけに腐心していた。
細い路地の最奥にある、古い家での暮らし。
家事は、祖母と千鶴が分担して行っていた。ゴミ出しや買い物など、外に出る必要があるものは祖母の役割。掃除や幼い弟のお世話など、家の中での仕事は千鶴の役割。料理は、せまい台所にふたりで並んで作った。
日陰に咲いた野花のような、寂しくも満ち足りた毎日だった。
けれど、千鶴が十歳になる頃には、この暮らしの異様さから目を背けることができなくなっていた。
祖母が腰を痛めて、身動きがとれなくなった。
自然、家事のほとんどは千鶴が担うことになり、外出する機会も増えた。
昼間に外を出歩くたび、千鶴に注がれる奇妙な視線。
千鶴と同じくらいの背格好の子どもたちが、カラフルな鞄を背負って歩く姿。
皆があたりまえのようにしていることを、なにひとつ知らない自分。
何も知らなかった千鶴も、さすがに気づかずにはいられなかった。
────私はたぶん、普通のひととは違う。
霊が視えるなんてことが生易しく思えるような、もっと決定的な差異。社会と隔絶されたような、埋めがたい違い。
母は、千鶴と弟の出生届を出していなかったのだ。
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