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千鶴を産んだとき、母になにがあったのかはわからない。父のことを話す母の口は極端に重かった。もう亡くなっているのか、それともどこかで生きているのか、それすらも千鶴には知らされなかった。
母と祖母以外、この国の誰も千鶴という少女がいることを知らない。
足もとに深い穴があいたかのような欠落に、千鶴はただ戸惑った。
自分は、普通のひとに比べて、何もかもが足りていない。
戸籍がない。
だから、行政からの就学通知書が届かない。千鶴と弟が義務教育を受ける機会はおとずれなかった。
近隣の住民たちは、ときおりゴミ袋を持ってふらりと現れる少女について、深く知ろうとはしなかった。
千鶴の身なりが整いすぎていたことや、すれ違えば軽く挨拶を交わす程度の社交性があったことも、結果としては周囲の無関心につながってしまったのだろう。誰も、千鶴が異常な生活をしているとは考えなかったようだ。
この地区の小学校には通っていない、よその学区の子ども。
礼儀正しいところをみると、有名な私立学校に通っているのかもしれない。
足の不自由なおばあさんの家を訪ねて、お手伝いをしている偉い子ども。
そんな他人事めいた噂が飛び交うなかで、千鶴たち家族はひっそりと息をひそめて過ごした。
母は、千鶴がご神体の役目を上手にこなしていれば文句はないようだった。暮らしはかつかつだったけれど、きちんと生活費も渡してくれた。
「千鶴。あなたは神さまに斎く神聖な身。心身を清め、けっして穢れを寄せつけませんように」
母に言いつけられたとおり、千鶴は毎日せまいお風呂で身体をみがいた。異性との接触は神経質なほど避け、霊力が宿ると言われれば髪をのばした。
そうやって言うことをききながらも千鶴は、自分の身体に降りてくるものは神さまなどではないことをわかっていた。
降りてくるのは霊魂だ。
千鶴のうつろになった魂の隙間に、ほかの魂が入り込む。
それは死霊だったり、生霊だったり、悪霊だったり……、信者と呼ばれるひとたちに憑いたものが、千鶴の魂の虚に引き寄せられるのだ。
「ちぃちゃんは、霊媒体質なんだね」
祖母が教えてくれた。
「大丈夫だよ。ちぃちゃんは大丈夫だ。おばあちゃんがとっておきの宝物をあげるからね」
しわしわの手で千鶴の頭をなでて、祖母はくしゃりと笑った。
「宝物?」
目を輝かせた千鶴に、祖母はもったいぶったようにうなずいて、四畳半の部屋の隅にある鏡台をゆびさしてみせた。
「あれはね、実は破魔の鏡なんだ」
「ハマ?」
「悪いものをやっつけちゃう鏡だよ」
「……本当? 毎日みてるけど、なんともないよ?」
「それはちぃちゃんが良い子だからだね」
茶目っ気たっぷりに片目をとじてから、祖母はやわらかく頬をゆるめた。
「本当に、こんな良い子はいないよ。ちぃちゃんは良い子だ」
繰り返すと、祖母の笑顔がくもる。
悲しそうな顔を見ていられなくて、千鶴は祖母の割烹着に抱き着いて頬をすりつけた。お出汁のような香りが、千鶴を安心させてくれる。
祖母のぬくもりだけが、千鶴の知っている愛情のすべてだった。
けれどその祖母も、腰を悪くして起き上がれなくなってから、ぼんやりとすることが増えていった。意思の疎通がむずかしくなるのに、それほど時間はかからなかった。
千鶴と弟が置かれている境遇が、祖母の心に重い負荷をかけていたのだろう。祖母は内側から崩れてしまった。
────ちぃちゃん、大丈夫だよ。
祖母の魂の声が、千鶴の肩のあたりで聞こえる。
その声に支えられ、十八歳の千鶴は、おそるおそる外の世界へと足を踏み出した。
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