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きっかけは、母からの生活費が仕送りされなくなったことだった。物言わぬ祖母と、十二歳の弟を養うためには、千鶴が働かざるを得なくなった。
何か所もアルバイトの面接を受けて、やっと採用されたのは工業製品の検品の仕事だった。
千鶴が勤める現場では、人と適度な距離をとりながら黙々と作業することができた。自分のことを正直に話せない千鶴には、この現場は居心地がよかった。
必死に働いて、ようやく仕事にも社会にも慣れ始めたある日。
同じアルバイトの女性が押していた台車が、千鶴の足にぶつかるという事故が起きた。
出血はしたものの、大した怪我ではなかったので、千鶴は気にしなかった。けれど、責任感がつよく親切な工場長は、千鶴を病院へ連れて行ってくれた。
そこで、千鶴の生い立ちの異常さが露見してしまった。
千鶴は健康保険証をもっていなかった。そんなものがあることも知らなかった。
付き添ってくれた工場長の、まん丸に見開かれた目が忘れられない。理解できないものを眺めるような、胡乱な眼差しだった。
勤め先を解雇された日、祖母が亡くなった。
息をしていない祖母に動転した千鶴が救急車を呼んだことで、小さな家でのささやかな暮らしは終わりをつげた。
千鶴の力ではどうしようもない現状。それを、祖母が最後の命の一滴をつかって、切り拓いてくれたようだった。
あとから知ったことだが、千鶴の母は詐欺罪で刑事告訴されていた。母からの音信がなくなったのは、それどころではなくなったからなのだろう。近く、起訴されるということだった。
教えてくれたのは、祖母に依頼されたという弁護士さん。
姉弟の後見人になった弁護士さんは、法務局に問い合わせて戸籍取得の申請を迅速に行ってくれた。戸籍はないものの、千鶴と弟の住民票はある。母の戸籍謄本、そして一枚だけ存在していた母子の写真など、種々の資料をそろえての戸籍取得手続き。千鶴ひとりでは、きっと何もできなかっただろう。
さらに弁護士さんは、弟に良い養子縁組先を見つけてくれ、千鶴には職場を斡旋してくれた。
ぷくぷくの赤ちゃんの頃から育てた弟と離れるのは、身が千切られるほど寂しい。けれど、彼の新しい人生のためだと思えば耐えられる。
祖母の喪が明け、二十歳になったばかりの秋。
心も身体も、生きているかどうかわからなかった千鶴が、ようやく地に足をつけて立てた気がしていた。
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