ところで、結婚しよう

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ところで、結婚しよう

 折り畳み式のちいさなテーブルの前で、千鶴はちんまりと正座していた。  八畳ほどの二階部屋には、千鶴の荷物が運び込まれている。といっても、私物の家具はこのテーブルと、祖母の遺品となった鏡台だけ。あとは梱包が解かれた段ボールがひとつ、部屋のすみに所在なさげに置かれていた。  千鶴は、ほかほかと温もった髪へ手をやる。そっと梳くと、長い髪はなめらかに指の間を滑り落ちていった。  仕事場になるお宅に到着するなり、何の説明もないまま、とにかく温まれとお風呂場へ押し込まれた。予想外のことに慌てたけれど、たしかに雨に濡れたみすぼらしい姿でこの家のご主人に会うのははばかられる。  おとなしく……、少々おびえながら、威圧感のある男性に勧められるまま湯をつかわせてもらった。図々しかっただろうかと、今になって後悔が胸をよぎる。  おそらくこれから依頼される仕事は、この家の家事全般なのだろう。いわゆる家政婦、家事代行サービス。部屋が用意されているということは、住み込みだ。 (もしかしたら、とても偉い方のお宅なのかしら)  礼儀を必要とされるお仕事なのかもしれない。粗相があってはいけないと、着替えたばかり服を確認する。  タートルネックの白いセーターに、ベージュのロングスカート。ゆったりとしたシルエットは野暮ったいけれど、たぶん失礼なところはないはず。  以前つとめていた工場では、身なりを気にされることはなかった。もちろん、作業服は身に着けて、長い髪をまとめて帽子をかぶっていた。  けれど、現場には髪を染めているひとや、よれよれの作業服を着ているひともいて、その多様性が千鶴には居心地よく感じられていた。そのなかに、自分もうまく溶け込めている気がしたのだ。  ……失敗してしまったけれど。  思い出して、気分が落ち込みそうになる。  自立したい。  それが目下、千鶴の目標だった。  今まで、自分の置かれた状況を嘆く力もなく、ただ流されるままに生きてきた。これまでの二十年間は、自分の力で歩いてきた感覚がない。  そんなふわふわした生き方をしていたから、失ってしまったのだ。祖母も、住み慣れた家も、弟との暮らしも。  流されるままでは、自分の居場所は守れない。  きちんと、自分の足で歩きたかった。 (大丈夫。少しは社会経験ができたもの。今度はうまくやっていけるはず)  千鶴は物思いを払うように頭をふる。ゆるい癖のある髪から、シャンプーの甘い香りがただよった。今まで使ったことがない高級品は、香りまで上品だ。  よく見れば、この部屋に置かれている家具類も品よくまとまっている。アースカラーを基調とした優しい色合いの調度品は、強張った心を落ち着かせてくれた。  とりわけ、窓辺に設えられた大きなベッドは千鶴の目を惹きつけた。 (なんだか……。ものすごくふかふかしてみたい……!)  今まで薄くて重い布団で寝たことしかない。スプリングのきいたベッドは、寝具というよりも魅力的な遊具のように見えた。  行儀が悪いと思いつつも好奇心に負けて、千鶴はベッドの隅にゆっくりと腰をおろしてみる。想像以上のやわらかさに、胸がときめく。座ったまま軽く反動をつけて、思うように跳ねてみた。ぴょこぴょこ、ぴょこぴょこ。 「……楽しいか?」  夢中になってベッドの上で跳ねていた千鶴は、笑いの滲んだ声をかけられて、かつてない素早さでテーブルの前へ転げ戻った。 「し、失礼いたしました……!」  床に額をこすりつけんばかりに平伏した千鶴の上から、快活な声が降ってくる。 「問題ない。楽しそうで何よりだ」  愉快そうな男性の声につられて、千鶴はおそるおそる顔をあげる。そして絶句した。  強烈な印象はそのままに、くつろいだルームウェア姿の男性がそこにいた。風呂上りらしく、濡れた髪にはまだ雫がのこっている。 (髪を拭かないで出てくるなんて、ちいさな子どもみたい)  弟もよく濡れたまま部屋にもどってきては、子猫みたいにぷるぷる頭を振って雫をはらっていたっけ。  思い出してほんわかしてから、はっと我にかえる。 (違う! そうじゃなくて、どうして服を着ていらっしゃらないの!?)  悲鳴をあげたつもりだったけれど、喉がひくりと痙攣しただけだった。  男性は上半身裸のまま、首にかけたタオルで無造作に髪を拭いている。平然としていた。その堂々とした姿を見れば、青くなっている自分のほうがおかしいのではないかと思えてくる。 (ええと、お家の中だから裸でもおかしくないのかも? ……どうしよう、わからないわ)  祖母の教えとテレビ番組で培った千鶴のせまい常識では、とうてい現実に追いつかなかった。とにかくわかるのは、このままでは心臓がもたないということだ。千鶴は男性の鍛え上げられて引き締まった上半身から、あわてて視線をひきはがした。  千鶴の混乱にはいっさい構わず、男性は「失礼」と短く断って部屋へ入ってくる。空のクローゼットを開けたかと思うと、今度はベッドの下をのぞき、果てはなぜかコンセントまで確認してから、思案するように軽く目を伏せた。
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