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「荷物はちゃんと届いていたか?」
男性が尋ねてくる。ぶっきらぼうではあるけれど、やわらかな声だ。
「……はい」
緊張感から、絞り出すような声になってしまった。
男のひとと二人きりになるなんて、千鶴にとっては驚天動地の出来事だった。しかも相手は半裸だ。なぜ?
一瞬、母に叱られると思ってから、そんな自分に驚く。こんなにも深く、母の戒めは千鶴の心に染みついている。
「少ないな。荷物はこれだけか?」
「はい」
「鏡……? と、その段ボールには何が?」
「衣類や日用品やぬか床が……」
「ぬか床?」
祖母の形見だった。
「まあいい。足りないものはこれから揃える」
男性は千鶴の対面に腰をおろした。居心地悪く縮こまる千鶴に、絶えない微笑を浮かべながら言う。
「これからあなたに頼みたいのは、この家と家人の管理だ。炊事や清掃……、俺の苦手なところをあなたに補ってほしい」
仕事の話がはじまったことを察して、千鶴は背筋をただす。気まずくて視線はあげられなかったけれど。
「承知いたしました」
「夕飯は?」
「あ、はい。今すぐ準備します」
さっと立ち上がりかけた千鶴を、男性が笑い含みに呼び止める。
「違う、俺は済んでいる。あなたはもう食べたかと訊いた。腹を減らしていては頭が回らない」
空腹は感じていなかったけれど、そういえば今は何時頃なのだろう。ちらりと窓へ目を向けると、カーテンのむこうはもう闇が降りている。雨の気配が濃くなっているように感じられた。
「私もいただきました。大丈夫です」
千鶴の返事に男性は満足そうにうなずいた。
「見ての通り、この家はまだ新しい。とりあえず必需品はそろえたが、まだ足りないだろう。これからの生活で必要なものは、あなたの裁量でそろえてほしい」
テーブルの上に、トランプのようなものが置かれる。
「これは……?」
「クレジットカードだ。暗証番号は……」
千鶴は唖然として、はじめて見るクレジットカードをながめた。このカードでどうやってお買い物をするのか不思議だ。仕組みが分からないからちょっと怖い。
「聞いているか?」
「は、はい!」
肩を震わせて返事をする千鶴を、男性はじっとみつめた。しばらく黙ってから、またおもむろに話しはじめる。
「名乗るのが遅くなって失礼した。自分は日生一狼少佐だ」
「ひなせいちろう、しょうさ?」
聞き慣れない単語に、千鶴は小首をかしげる。
「偽名だ」
男性は端的に答えたが、気になるのはそこではなかった。
(いえ、むしろもっと気になることを今おっしゃったような……。偽名ってなに?)
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。けれど、相手が名乗っているのだから、自分も礼を欠いてはいけない。
「私は……」
名前を告げようとした千鶴を、一狼と名乗った男性がさえぎった。
「知っている。ち……ちづゅる」
噛んだ。一狼は整った眉をしかめて、もう一度言う。
「ちづりゅ」
惜しい。
研ぎ澄まされた容貌をくもらせて苦心する彼を見れば、若干言いにくい名前ですみませんという気持ちになる。
「真野千鶴です。真野と呼んでいただければ……」
千鶴がおずおずと言い添えると、一狼は素直に不服そうな顔をした。
「俺はあなたの名前を呼びたい。それに、今からそのラストネームは使えなくなる」
「え?」
「ちづ……さん」
「は、はい!」
反射的に返事をした千鶴に、一狼はにっこりと微笑んだ。お陽さまみたいな笑顔につられて、千鶴の頬もゆるみそうになる。
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