ところで、結婚しよう

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「ちづさん。他に何か訊きたいことは?」  訊きたいこと。  たくさんありすぎて一度には尋ねきれない。まず、なぜ服を着ていないのかが気になる。 「あの……、寒くありませんか?」  秋雨の影響で今夜はいつもより冷える。薄手のセーターを着ている千鶴でも、肌寒さを感じるほどだ。湯冷めでもして風邪をひいたら大変だ。  千鶴の問いに、一狼は意表をつかれたように鋭い印象の瞳を瞬いた。  間抜けな質問をしてしまったと、千鶴は後悔する。頬が熱くなるのを感じた。 「……いや、俺は北生まれだから寒さには強い。あなたは寒いか?」  やや当惑気味に尋ねられて、千鶴はあわてて頭をふる。相手の心配をしたつもりが、逆に気を遣わせてしまった。 「私はたぶん、ひとより体温が低いんです」 「寒いのか。了解した、空調に関しては急いで手配しよう。ところで、俺はあなたを妻にしたい」  明日の晩御飯はサンマにしたい、くらいの調子だった。  何を言われたか理解できず、千鶴は顔をあげてきょとんと目の前の青年をみつめた。機嫌の良い笑顔と逞しい身体にぶつかって、いたたまれずにまたうつむく。 (今、なんて……?)  たしか仕事の話をしていたはず。それなのに、なぜ妻なんて単語が出てくるのだろう。  頭のなかが乱れに乱れている。  言葉もなく呆然とする千鶴に、のんびりとした声がかかった。 「伝わらなかったか? 俺はあなたを伴侶にしたいと言ったんだが」  聞き間違えようもない明快さだった。それなのに、拒否する隙をあたえない不動の意志が感じられる。言動から伝わる一片の迷いもない自信が、黙り込む千鶴を追い詰めた。  沈黙するという選択肢も奪われ、千鶴は震える唇をひらく。 「それは……、無理です」 「なぜ?」  あっさりと訊き返された。一狼は子どものように首をかしげている。  返答に詰まった千鶴は、相手のペースに飲まれそうになる気持ちを必死で奮い立たせた。 「なぜって……。日生さんとは今日はじめてお会いしたばかりです」  一瞬、鉛のような瞳の色をかげらせて、一狼はわずかに眉をしかめた。それから、何事もなかったかのように軽やかに応える。 「関係ない」 「でも……」  一向にうなずかない千鶴に困ったのか、一狼は小さくため息をおとした。 「問題はなにもない。この国の法律では、十六歳以上の女性は未成年でも一方の親の同意があれば婚姻関係を結べる。あなたは成人しているが、いちおうは親の了承を得た」  さらりと告げられた事実に、千鶴は息をのんだ。スカートの裾をつかんでいた手に、無意識に力が入る。 「母が……、同意をしたんですか?」  そうだとしたら、自分は逆らえないかもしれない。  身に染みついた、母に従わなければならないという強迫観念が、千鶴の思考を真っ黒に塗りつぶしていく。 (駄目だ。私は自分の足で生きていく、そう決めたんだから)  なけなしの勇気を振り絞って、目の前にいる一狼を見つめる。彼は微笑を湛えたまま千鶴を見据え、ゆるく首をふった。 「母親じゃない。父親が同意した」 「……え?」  まったくの予想外だった。  父の存在は、今まで千鶴の人生に何の影響も及ぼしてこなかった。ほとんどいないものだと思っていたのに。 「私の父はいるんですか?」 「おかしなことを訊く。父親がいなければあなたは生まれないだろう?」 「その……、生きているんですか?」 「……そうか。細野(ほその)からそのあたりのことは何も聞いていないか」  一狼の口から、お世話になった弁護士さんの名前が出たことに千鶴は驚く。と同時に、何か不穏なものを感じてきつく唇をかんだ。  父について、千鶴が知っていることは少ない。母はひと言「ひどい男だった」とつぶやいた。その言葉から察して、母は父の暴力から離婚をしないまま逃げてきたのだと思っていた。父の籍に千鶴と弟が入ることを嫌ったため、出生届を出さなかったのだと。  けれど、一狼は強く否定した。 「誓って言う、それは違う。あなたの父親は尊敬と誠心をよせるに値する人物だ。決してちづさんを見捨てたわけじゃない。あなたの母親が、生まれたばかりのあなたを連れて行方をくらました後も、彼は指定された口座に援助の資金を送りつづけていた」  ……知らなかった。  一狼の真摯な言葉で、ぼんやりとした輪郭の父親像がほんのすこし現実味を帯びてくる。 「日生さんは、父のことをご存じなんですか?」 「ああ。あなたの父親は、ある無国籍軍事組織の幹部だ」  組織……? と聞いて千鶴の頭に浮かんだのは生協くらいだった。生活協同組合なら、千鶴も一時期お世話になったことがある。  けれど、一狼の言う『組織』はどこか物騒な匂いをはらんでいるような気がして、背筋に冷たい汗が浮かぶ。 「この組織に名はないが、『O』とか『盾』と呼ばれることがある。便宜上、そう自称することもある。『盾』の目的はひとつ。────異端者の保護だ」 「異端者……」  つぶやいて、それが自分のことを指しているのだと、千鶴ははっきり自覚してしまった。彼女が望んだことではないが、千鶴は社会の常識から外れて育ってしまった。
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