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プロローグ 異端のものたち
女が、床にへばりついている。
フローリングの廊下に、ぺたりと四肢を投げ出している。その姿は、未熟で不格好なトカゲを連想させた。長い黒髪がしどけなく床を這っている。
女の異質さに、千鶴はなかば意識をのまれそうになっていた。動けない。目が離せない。正常な感覚が壊されていく危険。
いけない、と心のなかで自分を叱咤し、千鶴は止まっていた呼吸を浅く繰り返す。息は吐きだしたそばから白く凍った。廊下の温度が異常なほど低い。足もとに這いつくばった女の霊による障りに違いなかった。
大丈夫。こういうものには慣れている。
相手はまだ、千鶴が彼女の姿を認識していることに気づいていない。このまま、何でもないことのようにやり過ごせる。
彼岸のものに声をかけてはいけない。
千鶴は、亡き祖母の言葉を胸中で唱える。
異様なものたちは、たいてい此岸とのつながりを欲している。生半可な気持ちでかかわれば、簡単にあちらへ引きずり込まれる。
────大丈夫。大丈夫だよ、ちぃちゃん。
祖母の声が、右肩の上あたりから聞こえた。
千鶴を救ってくれる、祖母の魔法の言葉。
祖母が生きているときは、その温かく乾いた手で千鶴の両手を包んで、ゆっくりと紡がれた言葉。そして亡くなってしまった今は、千鶴の右肩のあたりでそっと囁かれる言葉。
────大丈夫だよ、ちぃちゃん。
幽かな声に励まされて、千鶴は一歩、女の霊から後退る。とたんに、足もとの床がきしりと小さな音をたてた。背筋が凍る。とっさに女のほうへ視線を投げてしまう。そして目が合った。
落ち窪んだふたつの眼窩が、千鶴を見ていた。眼球があるはずの場所には、ただ黒い穴があいているばかり。女が白い亀裂のような口を開く。けれど、声は音にならない。ぽかりと空いた女の口内には、舌の根も見えなかった。
あえぐように開閉する女の口から、ごぼりと濁った水がこぼれおちた。得体の知れない汚水はフローリングの木目をたどって、千鶴の足先にまで達しようとしている。
恐怖が一瞬で精神を塗りつぶす。あまりのおぞましさに、悲鳴が喉をせりあがった瞬間。
「下がれ、ちづさん!」
よく響く男の声と同時に、鋭い発砲音が耳もとをかすめていった。床が乾いた音をたてて弾け飛ぶ。狙いすました銃撃は、しかし女霊には何の衝撃も与えなかったようだ。
当たり前だ。
心霊相手に、物理で大真面目に立ち向かおうとするひとを、千鶴は初めて見た。
軋む首筋を無理にうごかして、千鶴は背後を振り向く。見上げるほど上背のある男性が、ハンドガンを両手にかまえて立っていた。精悍に整った眉が微かにひそめられている。どうやら、自分が放った銃弾が相手に少しの痛手も与えなかったことが不満らしい。
男性は低い声でつぶやく。
「……火力不足か」
(絶対に違うわ……!)
声にならない悲鳴をあげる千鶴をよそに、男性は千鶴の前に立ちはだかる。流れるような動作で床を蹴ると、床板が綺麗な長方形にくりぬかれた。
(いつの間にそんな仕掛けを?)
床にぽっかり空いた穴に、千鶴はあきれながら目を瞠る。その穴から取り出されたアサルトライフルの形状に、得も言われぬ脅威をおぼえた。同時に、その凶器を正確無比に構える目の前の男性にも、銃と同じ獰猛性を感じとる。
「や、やめてください、一狼さん!」
せっかくの新築一戸建てが……。
千鶴は悲鳴まじりに男性を制止する。そして、はっきりと確信した。
怪奇現象より、女の霊より、なにより。
一番物騒なのは、自分の夫なのだということを────
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