梅おにぎりからはじまる共同生活

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梅おにぎりからはじまる共同生活

 カーテンの隙間から、あわい藤色の光が漏れはじめた。  やっと訪れた夜明けの気配に、千鶴はかちかちに固まった身体でみじろぎした。その些細な動きで、隣に眠る青年の寝息がわずかに乱れる。ぎくりと息をひそめて、気配をうかがう。 (大丈夫そう……?)  ゆっくり百秒数えてから、千鶴は猛獣を目覚めさせないよう慎重な動きでベッドから降りる。ラグの敷かれた床につま先を触れさせてから、やっと息をついた。  抜き足差し足で冷気にさらされた床を歩き、ふと背後をふり返る。  たっぷりとした広さのベッドで、一狼がこちらを向いて眠っている。 (……寝顔は子どもみたい)  昨日の彼は始終、威圧的な笑顔を浮かべていて、話しかけられるたびに千鶴は震えあがっていたけれど。  か弱い朝日にさらされた寝顔をしばらく見つめてから、はっと我に返る。慌てて視線をそらした。 (寒くないのかしら?)  裸のままの腕が掛布団の上に出ている様は、見ているこちらのほうが寒くなってくる。一狼は何も身に着けずに寝てしまったらしい。自分の隣に一晩じゅう、半裸の男性が寝ていたと思うと目の前がくらくらした。  眩暈をおぼえながら、千鶴は自分の荷物のなかからカーディガンを引っ張り出す。それを一狼の硬そうな肩にかけ、ついでに昨夜切った親指の傷に絆創膏を貼りつけておいた。  一連のミッションを一狼を起こさずにこなし、千鶴はよし、と気合を入れる。  選択権はなかったとはいえ、千鶴はこの家の管理をまかされた。一睡もできなかったけれど、一晩の宿もとらせてもらった。 (立場はともかく、お仕事はきちんとしないと)  結婚とか妻とか、整理できないことはとりあえず置いておいて、あれこれ思い悩むよりも身体を動かしたい。家事はもともと好きなほうだった。  ────大丈夫だよ、ちぃちゃん。  祖母の声は、変わらず右肩のあたりで囁いている。その幽かな気配に励まされて、千鶴は自分のできることをひとつずつ考えてみた。  ベッドサイドに置かれたデジタル時計がしめすのは、午前五時。床に散らばったままの自分の髪を片付け、寝室をそっと出る。  廊下はまだ薄暗い。まずは、気持ちをすっきりさせるためにも、顔を洗って身だしなみを整えたかった。 (洗面所をお借りしたいんだけど……)  千鶴は昨日お風呂を借りたときの記憶をたどって、廊下の一番奥を目指す。菱形の飾り窓がかわいらしい扉の向こうが、たしか洗面所兼、お風呂場だったはず。  案の定、ひかえめに開けた扉の先には、丸い鏡をそなえた洗面台があった。色合いの異なる緑のモザイクタイルと、ダークブラウンの木彫がさわやかな洗面台。昨夜つかわせてもらったはずなのに、水滴ひとつ残っていない。新品同様の水回りを汚すのは、ずいぶん勇気が必要だ。  でも、一狼が起きてくる前に、急いで洗顔を済ませてしまいたかった。  早く仕事にとりかかりたいというのもあるけれど、顔を洗ったり、歯を磨いたりという、家族くらいにしか見せない姿を、昨日出会ったばかりの男性の目にさらすのは気が引けた。 (……ああ、そうか。今日からはあのひとも家族なんだわ)  書類上は夫婦で、しかも同じ家に住んでいる。  だからといって、すぐに気持ちが追い付いてくるものではない。やはり、気を許せる家族は祖母と弟だけだと思いながら、千鶴は蛇口のコックを押し上げる。冷えた指先を流水にひたした瞬間、思わず声をあげそうになった。 (温かい……! なにこれ、すごく気持ちいい……)  蛇口からお湯が出てくるなんて、信じられなかった。毎年冬になると、身を切るような冷水で指先を真っ赤にして家事をしていたのに。  感動で打ち震えながらしばらく両手を温めて、はっと思いなおす。 (流しっぱなしなんてもったいない!)  あわてて洗顔を済ませ、鏡で身だしなみを確認する。その間も、指先からぬくもった体温が気持ち良くてふわふわしてしまった。  予想外の出来事に呆然としながら、千鶴はキッチンの場所を探す。慣れない場所で不安だけれど、せめて朝食くらいは準備しておきたかった。  大きな磨りガラスがはまった扉の向こうに、目的のキッチンはあった。  ゆったりと広いリビングダイニングの奥。美しい白色で統一されたオープンキッチンの存在に、千鶴は息をのんだ。  見たこともないフラットなコンロ周り。 (これが噂のIHキッチン。使いこなせる自信がないわ……)  巨大な冷蔵庫。 (業務用なのかしら? いったい何を詰めたらスペースを埋められるの?)  多機能オーブンレンジ。 (多機能すぎる。……とりあえず、見なかったことにしよう)  千鶴はあやしげなスイッチ類から目を逸らしつつ、焦りを感じはじめた。  小柄な千鶴を見下ろすような冷蔵庫には、何も食材が入っていない。庫内を照らすまっさらな照明が、ただむなしかった。  たっぷり収納のパントリーを開いてみたけれど、ここにもパンやお菓子類どころか、調味料すらそろっていない。  おまけに、これだけ最先端の電化製品がそろっているのに、なぜか炊飯器がみあたらなかった。  生活に必要な最低限のものはそろえた、と一狼は言っていた。たしかにすぐにでも日常生活をはじめられそうな立派な装いのキッチンだった。表面上は……。  こんな完全武装したキッチンで、どうやって初めての朝ごはんをつくったら良いのだろう。まったく生活の匂いが感じられないところが、どこか一狼と似通っている。  あのひとは一体、今までどんな暮らしをしてきたのだろう……。そう思いを馳せそうになって、千鶴はちいさく首を振る。  あの青年に関心をもってはいけないと、心のどこかで警報のようなものが鳴っている。近づけば、千鶴が目指す自立からどんどん遠のく予感がした。
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