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移り香のお話
タバコ臭い、と叱られて、梓は目を丸くした。
黒い紬姿の般若が腕組みをしてこちらを睨んでいる(いや、顔は能面で隠れているが、伝わってくる怒りのオーラから睨まれているのは間違いないだろう)。
般若が細い指先で苛々と梓を指して怒りの言葉を続けた。
「いいかい。おまえは娼妓じゃないから黙っていたけど……そもそもこのしずい邸の男娼は基本的にタバコはご法度なんだよ。タバコを良く思わない御仁も多いからね。だけど梓。おまえにあの男の匂いが沁みついているから台無しだよ」
あの男、と般若が言うのは、梓がいま一緒の部屋で暮らしている漆黒のことだ。
漆黒はゆうずい邸の男娼で……梓の恋人、なのである。
ヘビースモーカーと言っていいだろう彼は、部屋ではいつもタバコを咥えている。
漆黒の漂わせるその紫煙の香りは、男の体臭と混じりあってひとつの匂いになっていて……。
臭い、と思ったことなんて一度もなかった梓は、般若に指摘されて驚くと同時に少し恥ずかしくなった。
自分に漆黒の移り香があるという事実に、なんだか胸が捩れてしまう。
「す、すみません……」
「謝らなくていいから、あの男に禁煙するように言うんだね。今度僕の部屋にタバコの匂いをつけてきたら、おまえはクビにするよ」
つん、と顎先を上げて言い放たれ、梓は途方にくれた。
「で、でも……」
「でもじゃない。タバコは百害あって一利なしだよ。おまえの体にだって悪いんだから、僕とタバコどっちがだいじですかとでも訊けば喜んで禁煙するだろうさ」
艶やかな黒髪を掻きあげて傲然と口にした般若に、そりゃあ般若ほどうつくしければその物言いがゆるされるだろう、と梓はしゅんと項垂れる。
タバコと梓……天秤にかけるのもおかしな話だが、それを尋ねたとして、喫煙よりも梓をとってもらえるとは到底思えない梓であった。
***
「禁煙?」
漆黒が目を丸くして問い直してきた。
梓はベッドに正座をして、タバコをくゆらせている男を見つめて頷いた。
「は、はい。僕が般若さんのお手伝いに行ったときに、タバコの匂いがするって言われて……。しずい邸のひとたちはタバコがダメだからって叱られたんですが……」
おずおずと漆黒の表情を窺うと、男らしい眉をしかめた彼が、唇に挟んでいたタバコを指で摘まんだ。
まだ火を点けたばかりのそれを未練もなく灰皿に押し付けて。
漆黒ががりがりと頭を掻いた手で胸元を探り、そこからタバコの箱を取り出すと、梓へ向けてポンと放ってきた。
「預かっといてくれ」
「え?」
「手元にあると喫いたくなるしな。俺は意思が弱いんだよ」
くしゃり、と目じりにしわを作って漆黒が笑った。
梓は唖然と男の整った顔を見上げ、急いで首を横に振った。
「そ、そんなっ。僕なんかのために我慢しないでくださいっ」
梓の声に、漆黒が片眉をひょいと上げる。
「おまえに迷惑がかかるなら禁煙ぐらいするさ」
なんでもないことのようにあっさりと断言して、漆黒が梓の肩を抱き寄せてきた。
タバコと混じり合った漆黒の匂いが、ふわりと鼻先に香る。
「たまには俺にも格好つけさせてくれ、梓」
バリトンが、耳元で囁いて。
梓の腰がぞくりと震えた。
頬にちくりと漆黒の髭の感触が当たる。梓は指の腹で彼の顎を撫でた。
近い距離で視線が絡まる。
漆黒がまたくしゃりと笑って。
「口が寂しくなったら、おまえとキスすればいいしな」
と、言って。
どこまでもやさしいキスをくれた……。
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