隣人よ、愛を語れ

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隣人よ、愛を語れ

 顔の半分を覆うマスクは、もはや理久(りく)の一部だ。これなしで外に出るなんて、考えられない。  うっかりおかしな菌やウイルスを貰ってしまったら、大袈裟じゃなく死活問題に発展するからだ。  コンビニの品出しをしながら、その自分の一部であるマスクの中で、理久はふぅと(こも)った息を吐き出した。  まずいな、と思う。  なんだか熱っぽい。  早退させてもらおうか、という考えが一瞬頭を(よぎ)ったが、時計を見ればあと一時間でバイトが終わる時間だ。それぐらいならもつだろう。  理久の胸元には『鈴木』の名札。  施設に居た頃に適当に割り振られた名字だった。    理久の育った施設は暴力団の息のかかったろくでもないところで、病弱な理久は万年体を壊しながらそこで暮らしていた。  本当の親が誰なのか、どこでなにをしているのか、そもそも生きているのかすら理久は知らない。  施設の職員が養護児童を殴ったり、児童同士でもヒエラルキーがあったりするような糞みたいな場所だったが、そこで唯一良かったのは、(あずさ)と出会えたことだった。    梓。  それは、理久の弟のような存在の名前だ。  理久が体調を崩したとき、暴力職員から逃げ遅れたとき、他の子どもたちから苛められそうになったとき、梓は常に理久の傍らで体を張って理久をまもってくれていた。  その梓がなぜ兄ではなく弟ようなものなのかというと、それは(ひとえ)に、梓の危なっかしさにある。    梓は理久と違って健康だし、芯があってしっかり者だ。  けれど、なんというか……ひたむきすぎるがゆえに自分のことを顧みない、自己犠牲精神の強すぎるきらいがあって。  それを理久はいつももどかしいような思いで見ていたのだった。  自分の体が丈夫であれば、梓の頬を叩いてもっと自分のことを考えろと叱り飛ばすこともできただろうけど、ひゅーひゅーとか細い呼吸をしながら理久がそれを言ったところで梓が聞き入れてくれるとも思えずに……理久はいつも狭いベッドで梓と寄り添うようにして眠りながら、どうかこの理久の大切な存在に誰かが手を差し伸べてくれますようにと祈り続けていた。  その梓にもいまは、恋人ができている。  理久も、梓のおかげで清潔な病院で適切な治療を施された結果、無事に成人することができたし、更には二十二歳になった現在はコンビニでこうしてバイトもできるほどになった。  まだしょっちゅう体調を崩すせいで自立しているとは到底言えないけれど、ひとり暮らしだってそれなりに様になっている。  理久は棚卸の手を止めて、再びコンビニの時計を見上げた。  先ほどから針はまだ十分も進んでいない。  視界がぐらぐらと揺れている。熱が出ているな、と理久は自分を分析した。    梓に電話をして迎えに来てもらうか……。  アパートの隣で暮らす大学生の弟分の顔を思い浮かべ……理久は首を横に振ってすぐにその面影を振り払った。  いやいや梓は今日、久々に恋人と二人きりで甘い時間を過ごしているはずだ。  梓はとある事情で十七歳の頃から数年間、淫花廓(いんかかく)という閉ざされた場所で暮らしていた。  そして昨年、ようやくふつうの生活に戻れることになり、折しも理久も病院以外で暮らす許可が下りたところだったため、最初は一緒に住むかと打診されたのだ。  もちろん理久は断った。  いったい誰がラブラブな恋人同士が暮らす家に間借りしたいと思うだろうか!  しかし、理久のひとり暮らしを断固反対した梓が、折衷案としてお隣りさんになるという提案をしてきたわけである。  まぁ、フタを開けてみればほとんど同居と言っても過言ではないほど、梓は理久の家に入り浸っているけれど。    というのも梓の恋人は刑事で、家を空けることが多いのだった。  男の顔をふと眼裏に浮かべてしまい……理久は慌てて忙しない瞬きをした。  しまった。  胸がぎゅうっとなってしまう。  理久は制服の胸元を握り締め、マスクの下で深呼吸を繰り返す。  体が健康になると、ひとは愚かになるのだな、と理久は痛感していた。    梓の恋人が他愛なく見せる、目じりにくしゃりとしわを寄せる笑い方。  バリトンのやさしい声。  理久の前では決して喫わないけれど……タバコの匂いの沁みついた指先……。  梓にだけ向ける、熱い眼差し……。  それらは理久の胸を締め付けて、まるで喘息の発作が起きる直前のような苦しみを与えてくる。    バカだな、と理久は思った。  オレはバカだ。  病床に着いているときは、生きることに精いっぱいで、他に意識など回らなかったというのに。  少し元気が出ると愛だの恋だのに意識をとられるのだ。  しかも相手は、親友の恋人。  いや、つい先日男と梓は籍を入れたのだから、もはや伴侶か。     
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