隣人よ、愛を語れ

2/2
2441人が本棚に入れています
本棚に追加
/229ページ
 は~あ、と理久は腹の奥底からため息を振り絞り、一番下の棚の補充を終えてそっと立ち上がろうとした……が、足元のあまりの覚束なさにまたしゃがむ姿勢に戻った。    こりゃダメだ、と理久は白旗を上げた。  梓にSOS案件だ。  無理をしたところで馴染みの病院に入院する未来しか待っていない。  早めの静養、早めの受診。それが二十二年の人生で理久の得た教訓だった。  理久は尻ポケットを探った。しかしスマホがない。ロッカーに忘れてきたのだ。  あ~、やべぇ。  レジに立っているバイト仲間に視線で助けを求めた。が、タイミングの悪いことにレジ前に客が立ち、互いの視界が遮られてしまう。  仕方ない。  とりあえず根性で控室まで戻り、梓に電話をする。  ミッションを頭の中で反芻して、理久は両膝に手を当てた。  勢いよく立つと眩暈が起こるから、そろりそろりとスローモーションの動きで腰を上げてゆく。  よし。ちゃんと立てた。  理久は補充に使ったカートをその場に残し、ゆっくりと足を踏み出した。  このコンビニは梓の恋人の伝手で雇ってもらった場所だった。  だから理久の体のこともよく知ってくれている。  早退することも、店長はきっと二つ返事でオーケーしてくれるだろう。    理久はぐるぐる回りそうになる視界を、(まなじり)にちからを入れることでなんとか宥めて、もう一歩足を前に出した。  ぐにゃり。  突然地面が歪んだ。  バランスを崩した理久は、左横の棚に突っ込みそうになる。  そこは酒類の瓶を陳列しているところで……。  大惨事の予感に理久は思わずぎゅっと目を閉じた。   「…………?」  しかし、いくら待っても瓶の割れる音は聞こえてこないし、体に痛みも襲い掛かってこなかった。  理久は不審に思ってそうっと片目を開きかけ……ふわり、とタバコの匂いが漂ってきたことでハッと両目を見張った。  理久の肩を、大きな手が掴んでいる。 「危ねぇなぁ。大丈夫か?」    落ちてきた声は、聞き慣れたバリトンで。  理久は丸い目で男を見上げて、瞬いた。 「おっさん……なにしてんの?」 「なにしてんのって……コンビニは買い物するところだろ?」  男がくしゃりと目じりにしわを作って笑った。    タバコの匂いのする指先が伸びてきた、と思ったら、前髪をくしゃりと乱すようにして、ひたいに触れられる。 「おまえ、熱か?」 「ん~、そうみたい。梓に電話しようと思ったけど、スマホがなくて」 「いつも持っとけって言われてたはずだろ?」 「たまたま忘れただけだってば」 「ったく……ほら」  男がため息をついて、くるりと体の向きを変え、理久に背を見せてきた。  理久が首を傾げると、「乗れ」と促される。    躊躇は、ほんの一瞬だった。  いまだけ(すが)っても、バチは当たらないだろう。  理久は屈んだ男の背に覆いかぶさった。  しっかりとした感触の腕が太ももの後ろに回されて、足がひょいと浮き上がる。  男は理久をおんぶしたまま、レジの方へと歩み寄った。  ちょうど客を見送ったバイトの青年が、ぎょっとしたように目を丸くする。 「ど、どうしたんですか、理久さんっ」 「こいつちょっとダウンしたから連れて帰るわ」 「えっ。大丈夫ですか?」  理久の虚弱体質を知る青年は、怒るどころか心配する色を顔中に浮かべて、気づかわしげにこちらを見てくる。 「ごめんな」  理久は顔の前で片手を立てて彼に謝罪した。  青年が首を振って、「ちょっと待っててください」とバックヤードに引っ込む。  すぐに戻ってきた彼は、理久の荷物を持ってきてくれた。  差し出されたワンショルダーのバッグに、 「首にかけてくれるか」  と男が軽く頭を下げてそう言った。 「自分で持つって」 「いいから」  男に促され、青年が彼の首にバッグを掛けた。 「悪いな」  バリトンの声が、そう詫びて。  男は理久を背負ったままコンビニを後にした。 「理久さんっ。店長には言っておきますので、お大事にっ!」  青年の声が追ってくる。理久はそれにひらりと手を振り返した。  コンビニとアパートは近い。  緩やかな上り坂となっている道を、男はゆったりとした足取りで歩いた。理久を背負っているのに、呼吸に乱れはない。 「おっさん、今日非番じゃねぇの?」 「非番だからこうしてのんびりコンビニに買い物に来たんだろうが」 「てっきり一日梓といちゃいちゃして過ごすのかと思ってた」  落ちないように男の首に軽く手を回して広い背中に体を預けながらそう問えば、男が軽く笑って、 「俺はそうしたかったけどなぁ」  と答えた。 「振られたの?」 「バカ。急にグループワークが入ったって言って、夜までは留守にするんだと」 「へぇ……」  じゃあ梓に電話をしなくて良かった、と理久は思った。  すぐに駆け付けられない状況で理久からのSOSを受け取っても、ただ無駄に気を揉むだけだろう。   「そしたらおっさん、暇なんだ?」 「そうだな。こうしておまえをおんぶして家に帰る程度には暇だな」  くつくつと男が笑う。  その振動が彼の背中から伝わってきて、理久はそっと頬を擦り寄せた。  この男は親友の恋人で。  理久はこの男以上に梓のことが大切だから。    自分の中に生じる、この苦しい想いは絶対に誰にも告げないし、墓の中まで持ってゆく。  理久はそうこころに決めて、男のあたたかな背から頬を離した。 「なぁ、おっさん」 「おまえはいつになったら俺を名前で呼ぶんだ?」  男の呆れ声に小さく笑って、理久は、 「あんたはおっさんで充分だよ」  と憎まれ口を叩いた。    男が苦笑して、少しずり落ちてきた理久を、よいしょ、と揺すり上げた。  男の歩みに合わせて、スニーカーの足がぶらぶらと揺れる。  二人の影が、溶け合うようにして路上に落ちていた。 「なぁおっさん」 「なんだ」 「梓の好きなとこ、教えろよ」 「はぁ?」  男の声が裏返る。 「なんでだ」 「いいじゃん減るもんじゃないし。あんたとオレで梓の好きなとこ順番に上げていってさ、先に尽きたほうが負け」 「……いまはおまえよりも俺の方が梓を好きだぞ」  男が顔を振り向かせて、理久をちかりと睨んできた。  彼の見せる嫉妬を笑い飛ばして、理久は髭のある頬を軽く押し、前を向けと注意した。 「じゃあおっさんからスタートな。惚気を聞いてやるから、梓への愛を語っていいよ」  理久は男の背で、バリトンの声に耳を澄ませた。  梓への愛を男が語るたびに。  自分の中にあるどうしようもない気持ちが、なくなればいいのに。    そう願いながら理久は、帰途を揺られたのだった。               END    
/229ページ

最初のコメントを投稿しよう!