9月7日 AM11:00

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9月7日 AM11:00

ごうごう風が鳴る。家屋全体が揺さぶられるような感覚に、幸弥は重い目蓋を持ち上げた。枕元の携帯を引き寄せて時間を確認、時刻は十時を少し過ぎたくらい。今から家を飛び出せばおそらく二限には間に合う。けれど今は夏休みだ、通常の講義はない。通常の講義はないけれど、集中講義が朝から入っていたはずだ。 靄がかかったような思考に強風で打ち付けられた雨音が散弾銃のようだ。 ぴしぴし、ぴしぴし、ごうごう。 緩慢な動作で携帯を起動して学内イントラネットにアクセスする。何度更新ボタンを押しても休講情報が更新されることはない。この雨風の中でもだ。 ――太平洋沖南西で発生した熱帯低気圧が……、急激に北上し……昨日の夕方の気象予報ではそんなことを言っていた気がする。ぼうっとしていてろくに聞いてはいなかったが、どうやらつまり珍しく台風が直撃したらしい。大抵の台風は東北を通過する前に世の人間には無害なレベルになるか、また太平洋沖に逃げていくことがほとんどだというのに。 だのに、一向に休講情報が更新される気配は無い。来いというのか、この暴風雨の中を。脳内でぐるぐると躍る「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」の文字。小学生の時分から事ある毎に引き合いに出され、時には暗誦までさせられるこの一節をこの期に及んでも持ち出してくるとは、最早正気の沙汰ではない。 僅かに頭を持ち上げ、数センチ浮かせたか浮かせないかのところでどくりと脈打った鈍痛に幸弥は目を閉じて脱力する。ベッドに沈んだ後頭部でずきずきと主張する頭痛が、起き上がることを完全に諦めさせていた。次いで、微かな振動に枕元に積んだ読みかけの本の山が崩れて容赦なく顔面に降り注いだのがまた地味に気力に刺さる。 ――最後のライブから半月が経った。恐ろしいほどに何もする気が起きない。おのれはここまで無気力な人間だったか、ああそうだった。元来精気に溢れた人間ではなかったが、ここまでだったのか。 色んなことを覚えた、ライブハウスのブッキングの仕方、フライヤーの配り方。学生時代の軽音部の活動で外部のイベントに出演することもなくはなかったが、完全に自主で色々とやったのはこのバンドが初めてだった。愁の家で音源を焼いてもらって自分たちでケースにパッキングしたりして、それも上々の捌けを見せていた。それなりにうまくいっていたはずだ。なにがうまくいかなかったのだろう。一体、なにが。 本の角が当たった鼻先を撫で擦りながら、考える。地方と、東京の差か。今より二十年以上前なら地方としては一大勢力を持っていた仙台、今では小さなバンドが生まれては死んでいくばかり。自分たちも……Kyrieもそうなってしまった。 インターネットの普及で地域間の情報格差は小さくなったはずだ。音源をネットにアップロードすればどの地域にいても聴くことができる、楽曲の良さはうちのバンドのウリだったはずだ。ストーリー性と独自の世界観を持つ歌詞に、流麗でメロディアスな曲調をしっかりとしたテクニックで演る。最後の東京での対バンイベントでもいい反応だった。それを、どうして活かせなかったのか。 「……やっぱ、東京かあ」 一昔前でも今でも、地方で名を馳せたバンドは東京へ活動拠点を移すのが定石だ。このCD不況、いくらいい音源を作ったところでその魅力をじゅうぶんに伝えられる場所、ライブがなければバンドは成長しない。こういう時、地方バンドは大きなハンデを抱える。知名度が圧倒的に足りない、そもそもこの界隈はどこか閉鎖的だ。ジャンル自体を愛するもので成り立っていて、同ジャンルのイベントで動員を増やしていくのが王道。しかし地方ではそんなイベントを開く規模のバンドがもう既にいない。 それに、Kyrieには他のバンドから見て圧倒的に足りないものがあった。しかしそれを口にすることはバンドの崩壊を意味していた。それは誰もが気がついていながら、目を逸らし見ないフリをしてきた。最後の最後まで。 いけない。こんなことを考えるつもりなどなかったのに。右腕で目元を覆うと長く息を吐く。こう天候がよろしくないと、思考まで暗く澱んでいく。 こんなこと、もう止めようと決めたのに。いつもの華音らしく、微かに笑みを灯して最後だからなにか自分の口から言うべきかと思ったけれど、制されたから結局物言わぬ人形のまま最後まで振る舞い続けた。フロアの啜り泣きが耳の底に張り付いたように、ざわざわ神経を揺さぶる。最前で涙を零す彼女たちはずっと、このバンドを愛してきた子たちだった。関東圏のイベントに出ると決まればついてきて共に戦ってくれた、大事な人たちだった。いつだって最前列にいて、アウェイな東京での対バンではそれが心強かったのだ。 翌日開いたメールボックスには、ライブの感想と今までの感謝と、それからこれからの期待が綴られたメールが何通か来ていた。メールに対しての感謝をブログで述べて、それきり。こんな未熟な自分たちを愛してくれてありがとう、こんな形になってしまってごめん、そして最後にもう一言謝罪を入れようとして、消した。 ――もう、華音としてステージに立つ姿は見せられないと思います。 この一文を打っては消し、打っては消してついぞこの一文をしたためて更新ボタンを押すことができなかった。だって手を引くなら今が一番いい、学業に専念するためなんてもっともらしい言葉をつければ納得される。あと半年もすれば三年目、学生協からの公務員試験対策講座のガイダンスのDMも来ていたはずだ。ここで手を引くのが、人生の一番スマートなやり口のはず。 逃げのように集中講義を入れ、殊勝に教採の過去問なんぞにも手を出しておきながら、最後の一手を決められない。 もう少し、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、どうしたいのか。 最後に、別れる時じゃあなと手を振った後姿が、どうしようもなく脳裏に焼き付いている。ステージでずっと隣にいた男の、いつもフロアを挑発するように不敵に口元を歪めた笑みが。最後まで冗談めかしてでも自分からは触れられなかった、向こうから戯れに伸ばされるのを待っていた手のひらの温度。いつだって一瞬しか触れたことのないそれは、覚えていられるはずなんてなくて。 「……まさと、」 囁く様に名前を呼んでみても、独りの部屋に消えるばかり。これからどうするの、なんて訊けなかった。終わることを考えたくなかった故の逃避だ。また来週、スタジオでとでも言いそうなくらい自然な別れ際、なにか言えばよかったのか。……何を? 考えてみても今生の別れでもあるまいし、と言いたげな顔が浮かぶばかりだった。そもそも自分のキャラに合わない、気づいて顔を覆う。繕うことばかりがうまくて、嫌になる。好意を伝える代わりに感謝、それとも未練を断ち切るための別れの言葉、どれをとってもおおよそ普段の自分には似合わない。感傷に任せて口にしても許されるだろうけれど、それで却って間違った振舞いをしてしまうのがこわかったからだ、結局何も口にしなかったのは。 ぐるぐる考えている内に、時計の針は正午を過ぎつつあった。チカチカと何かを受信したことを示すランプの明滅、どうせメルマガの類だろうと思いながらも電源ボタンを押して通知を確認して、一気に思考が地に堕ちた。 「お客様」からのメッセージだ。もう終わらせなければいけないことだけれど、すっかり忘れていた。というより忙しさにかまけて忘れようと努めていた。目の前に突き付けられた現実にぐらぐらと痛む頭で視界が揺れる。 自嘲めいた乾いた笑いが口から零れて、唇の端を伝ってシーツに沁みる。なにを今更、生娘のように純情ぶって恋煩いの真似ごとなどやっているのか。こんなことをやっている、ふしだらで、醜悪な人間が今更何を。 『華音さあ、そういうカッコ抵抗ねえんだ?じゃあさ……』 呼び起される、記憶。初めて衣装を合わせた時だったか、トイレに立った時さして自分に興味を持っているとはお世辞にも言えなかった男がついてきたのだ。トイレの壁に幸弥の身体を追い詰めてくるボーカルの愉季兎が、スカートの下の太腿を撫でた瞬間ぞくりと背筋が震えた。 元はと言えば、華やかさが足りないから女形をやるように命じてきたのも愉季兎だ。短いスカートの中を弄られて、いい気分になるはずなどなかった。同じバンドのメンバーでなかったら少々手荒な真似もしていたかもしれない。 「愉季兎さ、」 耐えかねて声を出した幸弥の顔を一段程下にある顔が見上げる。動作だけ言えばかわいげがあるかもしれないが、その表情は威圧感に満ちていた。フロントマン故のカリスマ性になっていればよかった。けれど目の前のこれは、そうではなかった。自分より立場の弱いものに対して屈服を求める、そんな凄味に幸弥はたじろぐ。 『正直足んねえだろ、頭のいいオマエならさ』 「……なんの、ことですか」 『もちろん金だよ、カーネ』 オマエそういうかっこう抵抗ねえならもちろん、ソッチも抵抗ねえんじゃねえの?今も黙ってるし、そう言って太ももを撫で擦る手が下着の縁にかかった瞬間叫び出しそうになるのをすんでのところでところで堪えた。努めて冷静に、会話を続ける。そうしていればきっと興を削がれてこの悪ふざけも終わるはずだと信じて。 「お金とこれと、どういう関係があるんですか」 冷静でいようとしたはずなのに、声は情けなく震えそうになっていた。 『だぁーかぁーらぁー、簡単に金稼ぐ方法あんだろ?って。男でも身体で稼げよ、機材とかもっと欲しいんだろ』 愉季兎の指摘は的を射ていた。今のバイトだけでは到底これからもバンド活動をしていく費用を捻出できない、もう一つバイトを増やすか考えていたところだった。けれど、けれどこんな方法は、あまりにも。 『女形は蜜(貢ぎ)探しも苦戦するからな、ソッチの方が楽だぜ?』 「でも、そんなの、俺には……そんなこと、したことない、です」 半部嘘で、半分本当だった。自分の性自認は間違いなく男で、こういう格好に抵抗がなかったのは違う。けれど、他にやれそうな人もいないし、だったらこれもこの界隈らしさを味わう勉強だと思って引き受けただけだ。女の子みたいになりたいなんて、思ったことはない。けれど、性愛の対象が異性だけにとどまらないのは本当だった。異性は好きだし、普通に恋愛対象で、ただ同性も普通に愛せる。俗に言う両性愛者というだけだ。 経験がないというのも本当だ。田舎でそんな経験ができるはずもない。普通に女性と付き合って、女性と関係を持ったことくらいはある。しかし同性相手とは、そもそも叶わないものだと思って諦めてきた。 『――じゃあ、おれが教えてやるよ』 「え、やっ、……!」 こうして手籠めにされた。されるがままだった。反抗の声はか細くしか出せなくて、こんなことになっているのを他のメンバーに知られたくなくて。声を押し殺し続けた。事が終わってぼろぼろの身体を、なんでもなかったように動かして。顔色が悪いと心配する声に、慣れない服で疲れただけと答えて帰途に就き、一人になった瞬間ぼろぼろ涙が零れる。 情けなくて、惨めで。けれどこんなこと、絶対他のメンバーに知られたくない。特に、将人には。それに言えばバンドは崩壊する、せっかく軌道に乗り始めたバンドを潰すようなことはできなかった。 そして自棄になって出会い系サイトで出会った男に身体を売るようになった。言われたとおり、身体を売れば簡単に金を稼げた。けれどその五分の一ほどは口止め料として愉季兎に搾取された。ついで、といいながら体も差し出すことを求められ、性欲のはけ口にさせられた。そんな役割のために関係を持っている女だっているはずなのに。 ――kyrieの動員が伸び悩んだ一番の原因は、愉季兎の表現力不足だ。顔の良さに釣られたファンも大勢いた、けれど幸弥の書いた曲の、詞の真意を理解しないまま歌う。それでなにをフロアに伝えられるというのか。高みへと昇るための上昇志向、ファンを、メンバーを心酔させるほどのカリスマ性。それこそがこのシーンのボーカルに求められるものだと、幸弥は思う。 投げ出した腕、手の中の携帯のメッセージに早く返信しなければ。そう思うのに体が鉛のように重い。嫌な記憶が次から次へと噴出してくる。 くるしい。 たすけて。 やっとの力を振り絞ってうつ伏せになる。目元が熱くて、頭がぐらぐらする。顔を乗せた枕が湿っていくのを感じながら、幸弥はぐっと目を瞑った。 ――こんな汚れた人間、それも同性に思いを寄せられたって困るだけだ。バカらしい。 シーツの端を握りながら思う。もう、将人だけではなくて、愉季兎との縁も切れたはずなのに。どうしてこんなにも、苦しいままなのだろう。
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