9月8日 PM14:36

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9月8日 PM14:36

台風一過の晴れやかな濃い青空を背に負っているにしては、対面の顔はお世辞にも調子が良いとは言い難かった。鈍感な方の自身には分かりかねるが、低気圧のもたらす不調が尾を引いてでもいるのだろうか。ドアを開けて、見下ろした視線とかち合った黒目の朧気さを、何に例えればいいのだろう。軽く充血した白目の濁りに、何を言えばいいのだろう。 三日前に学内で姿を見かけた時はそうでもなかったはずなのに、一体何が彼に起こったのか。測りかねて、そもそもそんなことは地団太に近い事に気がついてやめた。 「……入れば?」 ドアを開けたきり、何も言い出そうとしない訪問者に軽くない扉を支えていた腕が僅かに抗議を上げたがっていた。それに是という頷きを返した彼のために一歩引いて上がりこむためのスペースを作ってやれば、猫のようなしなやかさで長身の痩躯が滑り込んでくる。 けれども分かってしまう、動きにいつもより機敏さが欠けていることが。一瞬重心を誤ったようにふらついた体を支えるには手が足りない。 「……、」 何もしなかったことへの良心の呵責、けれどここで手を出せば彼のプライドを損なうことを知っていた。罰が悪そうに視線を外した彼をあまり見ないようにしながら、室内に入ったことを確認するとドアを閉め鍵をかける。次いでチェーンも引っ掛けてばたばたと冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。 そのまま棒立ちでもしていたらどうしようかと思った彼は装飾過多なサンダルを脱ぐのに難儀しているようだった。 「――ねえ、幸弥」 麦茶でいい、と尋ねようとした息ごと唇を奪われたのに気がつくまで、数秒を要した。玄関から冷蔵庫まで、二歩歩かないかの距離、気配もさせずに潜り込む手腕にただただ呆けた。 「トシ、いいよ、ね?」 婉然とした指先が頬に触れる、そんな濁った白目で何を言うのだろうか。なにがいいのだろうか。全然よくなんかないくせに。 すうっと細められた視線に、笑みの形を形作る唇に、茹だった思考が溶けそうだった。 せめて拒めるだけの勇気があればいいのに。拒めるだけの理由を探そうともしないで、ただ願っていた。本当はこんな求められ方をしたかったわけではないのに。幸弥の求めるものと、自分が求めているものが符合することだけを、ただ願っていた。そのための努力をしようともしないで。 彼の求める時にいてやれる存在であれるなら、それは苦ではなく楽なのだと思い込みたかったのだ。 少しだけ、今更のような侮蔑が浮かぶ。誘う時の媚びるような所作が、息をするように出てくることが。 なにがいいものか。与えたいのは、口にするべきなのは許可などではない。優位にあるべきは幸弥の方ではなく、触れることに許可など与える程高尚な人間ではないのだ。 「何も考えられないくらい、してくれる……?」 言葉の裏を返せば何も考えたくないという意思表示。 もうこれ以上考えたくなかった。これからの身の振り方も、今までの清算の仕方も。考えすぎて元々痛い頭がおかしくなりそうだった。全部麻痺させる方法なんてこれしかなかったからここに来た。 同じ高校、同じ大学。そして同じバンド。いつの間にか一番長い付き合いになったこの男に自身の悪行が露見するのに、そう長い時間は必要なかった覚えがある。あれは確か、去年の秋口だったか。スタジオ練の後に人と会う、と別れたあと男とホテルに入るところを止められて口論になったのだった。あの場は強引に押し通して、後日相当な大喧嘩をした。 「セフレの女に金をもらうのと何が違うのか」とかなんとか得意の屁理屈を捏ねて会話を投げようとした幸弥の手を掴んで「本気でそんなつもりでこんなことをしているのか」と詰られ、温厚な利央らしからぬ勢いに内心怯えていたが、もう完全に自棄になっていた幸弥は虚勢に虚勢を重ねた挑発をけしかけたのだ。 「――トシさあ、なんでそんな怒ってんの?俺が、お前以外の男に手出されて、妬いた?」 知っていた。この男が、自分に何かしら情を抱いていることくらいは。高校生活ではなんだか友情とかいう、見てくれの良いものに見せかけた奥に下心があることくらい気づいていた。 「……そうだったら、どうするの」 ここで少し冷静になった頭がおや、と思った。繕って来るか、否定してくるかと踏んでいたのに。素直に認めて来るとは思わなくてこっちが面食らう。そうだったらどうする、と来たか。今思えば利央も自棄の導線に火が点いて爆発してしまったのだろう。幸弥の行動のせいで。 思春期の、若気の至りで過ぎ去るはずの感情を、思い違いでない方向に暴発させるきっかけを与えてしまったのだと気がついて、背筋に汗が流れた。引き返せそうもない選択肢の過ちの多さに頭がパンクしそうだ。ぶちっと電源を引っこ抜いても取り返しがもうつかない。 一度した挑発を引っ込めることもできなくて、かと言ってこの自棄のように蹴り出された好意をどうしたらいいのかなんてもっと分からない。 一番、幸弥らしい返答とはなんだ。 つかみどころがなくて、本心なんて絶対見せない、気まぐれな男の返答として相応しいのは、一体なんだ。 あまり長い沈黙にするほどこちらが不利になる。ヒートアップしていた頭が僅かに冷静を取り戻していたおかげで、最適解はあっさりと見つかった。 「じゃあ、お前もすればいいじゃん。俺と、セックス」 呆れたように、興ざめしたように、興味すら持ってないような声で、事もなげに言った。目の前の顔が歪む。 ――俺は、バカだ。 数少ない友人すら、こんな風に自棄になって投げ捨てるんだから。 グラスに申し訳程度に入れた氷が解けて、均衡を崩したカランという小さな音にはっと意識が引き戻される。本当、バカらしい。この男の人の好さだとか、純粋な好意だとか。そういうきれいなものを利用して自分で作った傷に塗り込んで、痛みをやり過ごしている姑息さが。こいつをこんな、都合のいい男にしたくなんてなかった。 間違いだらけの証明問題は、もうどこから正せばいいのか分からない。解答を導くための道筋どころか前提条件すら違えている。体のいい逃げ場所にされてから、利央は怒らなくなった。それでいいのかよ、と言いたくなる。結局何も解決していない。 しかし一番卑怯なのは自分なのだ。利央の少し間違った好意を利用している上に、踏み外さなくていい道を踏み外させた自分なのだ。 窓の外、夏の盛りを過ぎてもう日の高い時間に蝉は鳴かなくなった。蝉は性交のために鳴くというけれど、そうしたらすぐ死ねるのだから羨ましい限りだ。 もっと人間も単純に生きれたらいいのに。文明的な生き方なんて捨てて、三大欲求に忠実なだけの原始的な生活に戻ればもっと話は単純だ。そうしたら、自分みたいなのは色んなものからあぶれてこの世界からさっさとおさらばできたかもしれない。 「ね、幸弥」 「……なに」 「――もう、ああいうことしない?」 ふた呼吸置いて尋ねる声は、自信なさげに揺れていた、気がした。とすん、と顔の横に落ちてきた茶金の塊になんと返したものか思案しながら、動かぬそれに触れようと片手を動かした。図体は立派な癖に、まれに妙にこどもっぽい所作をするのだ。そういえば兄がいるとか、そんなことを聞いた覚えがある。自分は妹がいるしで、そういう意味で合ってはいるのかもしれない。 指先が毛先に触れる。脱色しているのにそこらのドラッグストアで買ったシャンプーなんか使ってるから指通りはよろしくない。 「……しないよ、稼ぐ目的もなくなったし」 多分ね、という言葉は飲み込んで二度、三度指の腹でつつくと安堵したような息が落ちる。かわいいやつだ、こんな人間の言を信用するなんて。 したくないのは本当、足を洗うつもりなのも本当。けれど、なんとも言えない空虚感があった。あそこまでして、同性に身体を売ってまで稼いで買った機材も、服も、アクセサリーもここで全てやめてしまったらどんな価値が残るのだろう。しかし、また活動を始めれば必要経費は嵩む。これではいたちごっこだ。 「ねえ、トシ俺のど乾いたんだけど。どいて」 子どもに言い聞かせるような声が出た。少しばかり気色が悪い、言われた当人は勢いよく起き上がってローテーブルに置いてあるコップを手に取る。そうしてなぜかコップを自らの口に近づけた利央に幸弥は胡乱な目で見る。 「え、なに嫌がらせ、っ」 塞がれた唇に目を見開いて、滑り込んできたぬるい麦茶を飲み下すと思いきり目の前の頓珍漢を引っ叩く。人の気も知らないで変な雰囲気づくりを目論むマイペースぶりに引き始めた頭痛がぶり返してきた。 気を取り直して取り上げたコップの中の麦茶も結局はぬるいしやる気なく首を振っている扇風機の風もぬるいし、全部ぬるすぎる。けれどこのぬるさが居心地良く思ってしまってよくない。好ましいのは本当だ、けれどこの男の心地のいい好意に甘えていてはいけないのだ。踏み外させたのが自分なのだから、尚更そう思う。 バンドのことも、この関係のことも同じ。この時点なら、まだ引き返せる。全てを若さのせいにしてしまえると分かっているのに、まだ決めることができない。モラトリアムとはよく言ったものだ。 しかし、いつまでも続くわけがない。それがモラトリアムだ。必ず決断の時が、避けられぬ未来が訪れる。傷が浅いうちに、と思っているのに足を取られたまま動けないでいる。そもそも本当に、正しい道などあるのだろうか。そんなもの、はじめから自分には用意されていなかったのではないか。 自身の性愛を自認してから、苔のように蔓延る疑念に解答を与えることができるのは自分だけだというのに。自分はどうしたって全部はぐらかして、逃げてばかりで。考えたくないと言いながら、結局考えて袋小路に迷い込む。 「……幸弥?」 「っべーわ、そういや俺昨日も今日も自主休講だから単位死んだかもしんね」 「マジか。でもまあ、言うて集中講義でしょ」 ほら、またはぐらかす。そう囁く声を無視して、幸弥はちかちかと光るメッセージの受信ランプにも気づかないふりをした。
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