片隅の熊

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「有り難う御座います」 「左様で御座いますか」 「また、いらしてくださったんですね」  私の家には多くの“お客様”がはたはたと出入りする。  幼い私は邪魔にだけならぬようにと隅の方でちんましとすわりこんでいる。  家督は兄様が継ぐからと、この家のことはあんまり私には教えてもらえない。それは私が子どもだからという理由でないことは、子どもの私にだってわかるということを、お父様は油断しているのだろう。  一通りの礼儀作法はもちろんこの家に恥じぬようにと叩き込まれたし、幼いながら私はちゃんとやってきたと思うのです。  活け花やお茶の先生のところにも行かされた。それだって、ちゃんと嫌がる素振りひとつ見せずに私はやってのけたわ。  そのくらいの自信はある。  でも、お父様は私がこと勉強に励もうとするのを嫌がった。  婿養子だったお父様は、幼い頃から教養を培ってきたお母様のそれには足元にも及ばない。  所謂成り上がりのお父様は、商売の才覚は培ってきたけれど、それ以外の余剰、余裕のある環境でしっとりと身につけるような教養は、お母様には劣るのであった。  きっとそれはお父様の中で抑えきれない劣等感というやつなんだと思う。  だから私はお父様が遠方に買い付けに行っている間に、こっそりと兄様の本を拝借するのだ。  昔々の学者さんが書いた話が、海を渡ってやってきて、なんとも不思議な気持ちだ。  私はこの町からでさえちゃんと出たことが無いから、こっそりと読むこの本は世界を広げてくれる。  平仮名と片仮名は一通り覚えたし、もっと色々な文字も読み書きできるようになって、私は私の世界をもっと広げたい。  お父様が知ったら怒って、“仕置き部屋”に閉じ込められてしまいそう。兄様がたまに脅かすように私に言うのだ。すると番頭さんが焦ったように割って入ってくるので、私と兄様は笑いながら蜘蛛の子を散らすように屋敷の中を逃げてみせる。   “仕置き部屋”が何かはちゃんとは知らないけれど、兄様がとてもおどろおどろしく言うから、きっと恐ろしいところなのだろうなと想像している。 「この屋敷のどこかに、地下に繋がる秘密の通路があって、岩肌が剥き出しのじっとりと冷たく、頑丈すぎる錠前がいくつもつけられている部屋があるんだって」  私は片隅にこじんまりと座る、大人の男性の腕が双肩から伸びる、よだれを垂らしただらしない熊に話しかけた。
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