片隅の熊

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 その日はなんだか家の中も、店の中も慌ただしくて、番頭さんの機嫌も悪い日だった。  お父様は兄様を連れて出掛けているらしい、そうお母様が言っていた。  どこにとかそんなことは教えてはもらえなくて、私が子どもだからとか、女だからとかではなく、きっとお母様も何も伝えられてなどいないのだろうと思った。  お父様はお母様の家に婿入りしながらも、お母様を好いてはいないことは子どもの私にだってわかったのだから。  お母様が気づいていないはずもない。  お父様は、お母様の家に惚れて、家に入る手段としてお母様と結婚して、そして私はどこぞに嫁がせることによってお父様の立場を良くするための道具でありお人形なのだ。  こんな家を何度も出たいと思って家出してみたこともあるのだけれど、結局は自分の無力さを思い知らせてるだけでどうにもならなかった。  いつのことだったろうか、夜に家を抜け出して、野犬に教われそうになったのは。  今よりも幼かった私のからだとあまり変わらない大きさの野犬が、へろりと口を開けてよだれを垂らしていた。  細っこいからだは、きっとろくなものを食べてなどいないのだろうと思った。  そんなところに私のような栄養の塊が現れたのだ、それはもうご馳走に見えたことだろう。  私に飛びかかってきたあの野犬を、私は自分で追い払った記憶はない。  では誰がその野犬を追い払ってくれたのだろうか。  思い出そうとすればするほど、近づくほどに遠ざかる夜空に瞬く星のように、同じ分だけ届かない。  とても、とても大切で、明るさは足りないのかもしれないけれど、優しく光るものだった。  そう確かに心をあたたかくするそれを、私はどうしても思い出せなかった。  ふとあの櫛を手にしたくなって、自室に戻って、あの、あの人が選んでくれた小物入れから取り出した。  あの人?  あの人って誰だろう。  兎があしらわれた櫛が、やはり欠けていて胸が締め付けられるようであった。  そして私の耳にもようやく届いたのは、先日挨拶を交わしたばかり奉公人が、 突如として失踪してしまったらしい。  逃げ出したとかなんとかで、それで大騒ぎだったようだ。  そんな大騒ぎの中、お父様も兄様も不在で、ああそれで番頭さんが頭を抱えて機嫌が悪いのねと、納得してみるには十分だった。  ただ、私の部屋の片隅の熊が珍しく立ち上がったのだ。
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