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<2>月と呼ばれた少女
台所の暗がりの中にイリアンの娘はいた。
薪ストーブを前にして娘は、たった今燃え上がってしまったばかりの灰の塊を見つめていた。火室にある薪は炭と化し、時折プチッ、パチッと小さな音を立てながらすぶり続けている。手には布切り用のハサミが握られていた。つい今しがた、長いおさげ髪をバッサリ切ってしまったところだ。
そのせいで一見すると少年のようにも見える。しかし見えるのは短くなった髪と、ほっそりとした体形だけで、輝く灰色の瞳とふっくらとした形の良い唇はとても魅力的に見えた。
ロシア人の娘たちの多くは、華のような十代を迎える。十七歳に成長したイリアンの娘もまた同じで、その容姿は溢れんばかりに美しかった。
だが、娘は同じ年代の少女達には無い特異な事情を抱えていた。
一つは、“月”という隠語で呼ばれていたことだ。娘に正式な名前はついていなかった。
もっとも彼女を指す“月”についても、最近はめったに使われることはなく、大概は「あなた」「あの子」「彼女」で話が済んでしまっていた。
それくらい彼女の住む世界は狭かったのだ。
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