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最近は、始まった病院工事の騒音に加えて、どこからともなく、聞こえる地を裂くような重低音にひどく悩まされるのだった。
『──次の引っ越しは一人で行かないといけないよ』
この島へ来た時から、オルガは事あるごとに言った。
『私たちはここから先へは行けないのだよ。あなたは、あなた自身のために、ここから一歩踏み出さなきゃならない』
イーゴルも繰り返し言い聞かせた。分かっていたはずだ。いずれこの日が来ることを。今度の“引っ越し”は、今までと同じではないということを。
覚悟を決めていたはずなのに──、いざ出発を前にして娘の心は揺らいでいた。
ドア向こうで足音がする。些細な音も瞬時に理解できた。この歩き方は兄のように慕うニコライの足音だと。ドアノブが回る。蝶つがいのきしむ音とともにニコライが入ってきた。娘は燻るちいさな火を見つめながら静かに口を開いた。
「コウリャ、──今度の名前……ユウって言うの」
昨夜、イーゴルから新しい名前をもらったばかりだった。
「ユウ……」
ニコライは娘の名前を呼んだ。
この瞬間──、
娘はユウになった。
「綺麗な名前でしょう?」
「うん。とても綺麗な名前だ」
けれど会話は長続きしなかった。
二人ともしゃべるのを忘れてしまったかのように口をつぐんでしまった。
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