依 頼

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依 頼

 少し暖かい日も増えてはきたが、まだまだ肌寒い3月。梅の香りが漂う春風に吹かれて、(なぎ) 大和(やまと)は山の方を見た。微かに狼の遠吠えが聞こえた気がしたからだ。 「まさかな…」  それもそのはず、ここは犬の訓練所だ。正確には犬の訓練士や看護士、トリマーなどを育成する専門学校で、犬舎からは常に犬の吠え声が聞こえている。狼の遠吠えに聞こえた声も、犬舎の犬のあくびか何かだろう。  犬舎上のテラスにある手洗いで手を洗うと、大和は職員室に向かった。高校を卒業してこの専門学校に入学し、卒業してから早4年が経つ。卒業とともにスタッフとして就職し、安月給ながら住み込みで訓練士資格も取らせてもらい、大好きな犬達に囲まれている今の生活は充実していた。  ただ一つ問題があるとすれば、それは第2性がΩであるということぐらいだ。Ωは定期的な発情期があることからまともな職に就けない人も多いと聞く。しかし、犬の業界人は皆、犬の性に近しい第2性に理解があり、抑制剤を飲んでいれば特に仕事にも影響が無かった。  蔑まれることの多いΩだが、普通に就職して、仕事をさせてもらえている自分は、非常に幸運だと感じていた。とは言え、いつまでここで仕事をするのか、骨を埋めるのか。最近、微かに独立を考え始めていた。  職員室のドアを開けると、一番手前のデスクに所長が座っていた。 「お呼びですか?」  大和が尋ねると、所長は「おー」とにこやかに大和の方へ向き直った。力士並に恰幅良い体格のせいか、椅子がキーと悲鳴をあげる。 「いや、実はさ、下山郷の方で狼が出るって噂があってね。ま、恐らく、マラミュートと狼のハイブリッドのウルフドッグだと思うんだけどさ。凪、お前ちょっと行って調べて来てくれないか?」 「え…ウルフドッグですか? 襲われたりは…」  ウルフと聞いて青ざめた大和を、所長は大きな声で笑い飛ばした。 「ないない! 日本の狼は絶滅してるんだから、誰かが飼っていたウルフを山に捨てたんだよ。ただし、あくまで調査だけだ。捨てるような奴が育てたウルフだからな、どんな育てられ方をしてるか分からん。捕獲は依頼者の猟師に任せる。お前は痕跡を"出来れば"見つけてきてくれるだけで良いから、糞とか毛とか、な」  今は上級生の卒業試験前で忙しいからと押し付けられた大和は、地図をもらうと職員室を出て溜息をついた。  ウルフドッグというのは、主に2種類繁殖されていて、一つはジャーマンシェパードと狼のハイブリッド。外見は犬っぽさが残るが、シェパードが入っているので扱いやすい。  もう1種は、アラスカンマラミュートと狼のハイブリッドで、見た目はまさに狼。しかし外見重視の為、やや扱いやすさに欠ける。  狼と間違えられるなんて、所長も言っていたが、きっとマラミュート系のウルフだ。美しいけど、デカくて扱いにくいのは嫌だなぁ…と気分が重くなった。  というのも、大和自身があまり大きくないからだ。女子生徒と並ぶと目線が同じくらいで、身体も華奢で力にも自信が無い。だから40kg以上のバーニーズマウンテンドッグなどを抱っこしたりするのは苦手だった。  しかし、大和には不思議な特技があった。目を見れば動物の考えていることが、なんとなくだが分かるのだ。女性は、言葉を話せない赤子の世話をしなければならないのでこの能力を持つ人が多い。  もちろん男性でも心の声を読める者も居るし、トレーニングで身に付ける事も可能だが、大和は際立ってその能力に長けていた。そして、だからこそ、犬は大和の命令によく従った。所長は、大和のその能力をかって今回の件を依頼したのだろう。  大和なら、手を焼くようなウルフドッグでも何とかなるだろう…と。
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