3.バー「レッド・ルージュ」

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「そんな顔しないの。坊やにはどうしようもないことなんだから。ね?」  ぼくの気持ちを察したようにアンが言って、レースに包まれたマニキュアが光る細い指でぼくの頬を軽く抓った。 「うん」  その言葉はつきんとぼくの胸を刺したけど、アンが優しい顔をしていたから、ぼくは同じようになるべく優しい笑顔を浮かべて頷き返す。「()い子ね」と、アンの手はぼくの頬をひと撫でして離れた。  温もりが遠ざかってぼくの頬は少しひんやりして感じられる。思えば店の中はストーブの火が消えてしまっていた。もしかしたら初めから火が入っていなかったのかもしれない。誰もそんなことに気づかないくらい、パパとパパの恋人は朝一番から喧嘩に熱中していたのかも。だとしても、突き飛ばされたパパや取っ組み合いになった恋人がストーブに当たって大火傷を負うよりは多分マシなんだろう。お店の中はひっちゃかめっちゃかだ。パパが癇癪を起して投げつけたのだろうグラスや酒瓶や灰皿が、割れたり欠けたりしてあちこちに散乱している。踏みつけられてクシャクシャになったお札も床に散らばっていた。『手切れ金』だろうか。ぼくにはよく意味がわからないけど、その言葉と一緒に罵詈雑言を喚きながらパパが男の人にお金を叩きつけるのを前に見たことがある。  君は無事でよかったね。  ガラス戸が開きっぱなしになったカウンター奥の棚にいるユニコーンに心の声で話しかけた。透明なクリスタル製の置物だ。たてがみをなびかせ、額から生えた立派な角を誇らしげに天に向けて駆ける、とても美しい姿をしている。ぼくはこれが気に入っていて、でも店に置かれてたんじゃいつ壊されるかわからないから、部屋に移したいと以前パパにお願いしてみたけど却下された。こういうものは人目につくところに飾ってこそ価値があるんだって。  確かに、生活臭がいっぱいの部屋の中にはクリスタルのユニコーンなんてそぐわない。彼だか彼女だかには店のガラス戸棚が似合いの居場所だ。棚の奥は鏡張りになっていて、窓のない店内の曖昧な橙色をした照明がマホガニーの磨き上げられたカウンターの天面に当たってから跳ねて差し込み、鏡に映ったクリスタルの中で乱反射する。透明なはずのユニコーンは何万色にも輝いて見えた。  このお店はとても小さくて辺鄙な場所にあるけれど、そういう高価で品のいいもので調えられている。店の前には『レッド・ルージュ』と書かれたごく小さな看板がぶら下がっていて、けど赤い口紅を連想させる調度は店内にひとつもない。確かなのはパパが店に出る時は必ず口紅を塗っているということ。  他の人曰く、パパは美意識が高いらしい。ぼくにはよくわからない。だって青ヒゲに筋骨隆々でデニムとシャツを着た中年男が真っ赤な口紅をしてシナを作る姿が、いつもキレイななりをしてモデルや大女優みたいに見えるアンより美しいとはぼくには思えないから。パパのことはもちろん大好きだけど、それとこれとは別だ。  ともあれ、そんな『美意識が高い』らしいパパの経営する幾つものお店は、素晴らしい外装とインテリアを備え、ショーパブやクラブの中でも高級な部類に入るらしい。この店だけが趣味のもので例外ってこと。それでもやっぱり店の中は見る人が見ればわかる美的な調度がなされていて、だけど見る目のある人は出入りしないような場所に建っている。そしてパパと恋人の喧嘩のたびにしょっちゅうグチャグチャの有様になる。
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