二幕の七・手紙と馬車と青年将校

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そんな紅花の浮かれ調子に気づいているのかいないのか、占部は堅苦しい表情を崩さず前を見据えている。 背もたれに背は預けずに背筋を伸ばし、程ほどに膝を開いた腿の上に軽く拳を握った両手を乗せていた。 紅花相手に占部が緊張する理由もないから、これが彼の常態なのであろう。 清く正しく美しく。 放蕩うつけの感のある猪田のボンボンぶりとは別な方向性で、彼もまた『ええとこのお坊ちゃん』育ちなのである。 それも血統書付きのサラブレッドだ。 初めての馬車に対する興奮が収まってきた紅花は、にわかに緊張を覚え始めた。 身分も見た目も申し分ない青年の隣に、たかが茶屋の見習い陰間が似合いもしない男児の普段着を着て座っているのは滑稽である。 本来、ここに座っているべきは寺川町一の人気陰間と呼び声高い玉露か、さもなくばどこぞの、それこそ血筋の上等なご令嬢であるべきだ。 それがどうして、今こうして並んで馬車に揺られているか。 「あの」 どうして哥さんの頼みを聞いたのですか。 そう問いかけようとした紅花は、しかしそれを問うのは不躾であろうかと思い直して口を噤んだ。 結局、どういった経緯で今回の事の運びとなったのか、紅花は聞かされずじまいであるが、占部が自ら言い出すとは考えにくく、玉露が持ち掛けたのだろうことくらいは察しがついている。 惚れた相手に頼み事されて嫌な気になる男もいまい。 内容が気乗りのしないものでも、自身を頼ってくれたと思えば聞いてやりたくもなるだろう。 それをわざわざ問い質して言葉にさせるのは無粋というものだ。 無粋、不躾、野暮は玉露の最も嫌うことの一つである。 だいたい、紅花はそんな込み入った二人の事情まで聞き出す立場にない。 占部とこうして一対一で接するのも初めてのことなのである。 そこで紅花は急にハッとした。 否である。 玉露を抜きに占部と相対(あいたい)するのはこれが初ではない。 そのことを思い出したのである。
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