二幕の七・手紙と馬車と青年将校

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声を掛けておいて言い淀んだ紅花に対し、占部は生真面目に続きを待っていた。 表情は相変わらずで、口元は固く引き結ばれ、ニコリともしない。 かと言って、怒っているふうでもない。 無愛想。と言ってしまえばそれまでだが、むやみやたらと愛想を振りまく気質にないのだろう。 堅物ゆえの真面目くさった表情である。 「以前はご面倒をお掛けして申し訳ありませんでしたっ」 その占部の生真面目な表情がギョッと崩れた。 しばし沈黙していた紅花が、前後の脈絡なくそう言ったためである。 しかも紅花は勢い込んで、座席から転がり落ちかねないほど深々と頭を下げた。 突然のことに目を見張った占部は咄嗟に言葉もなく、すぐ隣で小さな体を二つ折りにしている少年を見下ろす。 呆気に取られていた。 だがさすがに頭の回転が速いとみえ、すぐに理解を追いつかせると、顔を上げるように言う。 「君が謝ることはない。君は被害者だ。私の方こそもっと早くに駆けつけてやれず申し訳なかった」 「そんな……。それこそ仕方のないことですから、どうか気になさらないでください」 謝罪をしたはずの紅花が慰めめいたことを口にする。 占部は僅かに口元を歪めた。 凛々しい眉の根元が微かに間を狭め、厳しさを増していた。 実のところ、彼は内心でほぞを噛む思いだったのであり、それは渋面だったのだが、良くも悪くも感情が顔に出にくいタイプなのである。 紅花の言う『以前』とは、玉露の使いで出かけた折のことだった。 使い先で支払うはずの金子をたまたま出会った『梅に鶯』の店主の倅である(うしお)に奪い取られてしまった。 なんとか取り返そうと揉めているところに駆けつけたのが占部粋正その人だったのだ。 その後、怪我をした紅花を店まで抱えて連れ帰ったのも彼である。 そんな大きな出来事があったにも関わらず、紅花はすっかり忘れていた。 恩知らずにも程がある。 しかしあの時は紅花も相当取り乱していたから、自分のことだけで手いっぱいだったのだ。 幼い少年の身を襲った悲劇を思えば無理もないだろう。 その上、紅花は怪我の影響か気持ちの問題か、連れ帰られた後も熱を出して寝込んでいたからあれこれと深く考えることもなかった。 加えて、後に使いのやり直しをしてやり遂げたことで、紅花の中で過日の出来事は昇華され、嫌な思い出はすっぱり忘れ去られていたのである。
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