二幕の七・手紙と馬車と青年将校

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まだ歳幼い少年にとり、日々は目まぐるしく、時間はあっという間で、且つ一日一日が色濃く、過去は瞬時に遠ざかる。 だが大人の時間はそうではない。 歳月は瞬く間に過ぎ去り、気づけば季節は移ろい年齢を重ねてゆくにもかかわらず、過去は今現在より影深く、未来より鮮やかに刻み込まれて残り続ける。 占部にとり、あの出来事は思い返せば渋面せずにおれない類のものだった。 何しろ加害者である潮を取り逃してしまったのである。 単に捕まえられなかったのではない。 その場で取り押さえる事こそ叶わなかったものの、居合わせた野次馬も多かったことから、聞き込みによって犯人の目星をつけることができた。 だが身元が分かったことで、むしろ占部ら警邏隊は手詰まりにあってしまった。 何しろ被害者と加害者が身内同士だったのである。 前者は『梅に鶯』の表向き住み込みの従業員である陰間見習いの少年、後者は同じく『梅に鶯』の店主の一人息子。 示談の余地すらなく、とかく平謝りする店主の口添えで潮は無罪放免となった。 確かに、内内のことである。 それに部外者が介入するものではないだろう。 しかし店の金と個人の金は別物で、店主の親父が預けた金だからと言ってその倅が懐に収めていい道理もない筈だ。 まして一人の年端もゆかぬ子供が怪我までしているのである。 占部は清廉潔白を絵に描いたような男である。 到底納得できるわけはなかった。 だが手も足も出しようがない。 被害者は未成年であり、その保護者は加害者の親でもあり、被害を訴えるつもりがないのである。 苦々しい結末であった。 「本当に済まなかった」 改めて謝罪を口にした占部に驚いたのは紅花である。 紅花はその後、潮がどうなったのか、盗まれた金子がどうなったのかを知らなかったが、玉露が何も言わないので紅花も聞こうとしなかった。 占部がそんなに深刻になる理由がわからない。 「旦那様が謝るようなことじゃないです。ほんとに、ほんとに気にしてませんから」 その言葉はまったく事実で、嘘や誤魔化しなどではなかった。 なんといっても忘れていたくらいのものである。 パタパタと顔の前で両手を振る紅花を見て、占部は僅かに口元を歪めた。 少年の慌てふためきようが可愛らしく、思わず苦笑のような微笑みのようなものが出たのであるが、傍目には先ほどの苦渋の表情とさして代わり映えはしない。 紅花はなおも慌てた様子で別な話題を探そうと、妙に勢い込んだ口ぶりでこう言った。 「あのっ、今日は本当にありがとうございます。お祭り、見るの初めてで。すごく、凄く楽しみです。馬車も初めてで、こんなフカフカのに座るのも、楽しくて嬉しいです」
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