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そう言えば、と紅花は思う。
「猪田の旦那様とは古いお付き合いなんですか」
初めに占部を『梅に鶯』へ呼んだのは猪田である。
あの男は何を考えているのか次から次へと新客を連れて来たがるから、占部もまたその中の一人だった。
編集業の三十路男と華族で将校の二十代の青年。
どこでどう繋がっているのか、紅花から見るとなんとも奇妙な取り合わせである。
「ああ、彼とは――」
占部が口を開きかかったところで、馬車が急に停車した。
僅かに占部の眉間が寄る。
予定していた場所に到着したというのとは違うようだ。
紅花は座席を囲う車体にある片側開きの扉に空いた小窓を見上げた。
しかし紅花の背丈では窓の位置と頭の高さがあわず、外の様子は伺えない。
白く千切れ雲の浮かんだ青空が見えるのみだ。
「何事だ」
前方に空いた御者と会話するための小窓に向かい、占部が腰を浮かせて声をやるのと前後して、
――コンコン
と扉が鳴った。
軽く折った指の背、関節の骨の辺りで戸を叩く軽い音である。
窓越しに振り返った御者が何か言おうとするのを身振りで制して、占部は自分の座っていた側の扉を押し開いた。
紅花も様子を窺おうと座った姿勢で前のめりになったが、生憎、占部の背中で視界は遮られていた。
狭い車内で占部は中腰に立っている。
改めてその背中の広いのに紅花は驚いた。
細身の印象があったが、こうして見ると思いのほか逞しい体つきをしている。
前屈みになっているせいで白いシャツの生地がひっぱられ、腕や背中や肩回りの線がくっきりと浮かんでいた。
幾つもの筋肉の隆起が見て取れる。
腰が据わり、尻は引き締まって小さく、腿は強靭な太さを有していた。
考えてみれば当たり前である。
占部は軍人なのだ。
つまり、有事の際には兵役に就くべく、日頃鍛錬を欠かさぬ身なのである。
涼しい面立ちに端整な立ち居振る舞い、その内に秘められた筋骨隆々のしなやかな肉体。
紅花は急に気恥ずかしさを覚え、慌てて顔を前に戻した。
誰に見られているでもないのに、やけに姿勢正しく席に着く。
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