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「けどあんたはあたしの頼みを聞いてくれた。今夜に予定を移してくれたのはどうしてだい」
「それは――」
問い質したかったのだと彼は言った。
元より、一度取り付けた約束を破るつもりはなかった。
薪能のあった日、占部はすでに次の予約の席を取っていたのである。
かなり先の予定ではあったが、後になって取り下げようと考えるには、占部は真面目過ぎる男であった。
どうせ会うのなら、あの日の弱音が本心であるか、玉露が自らを本気で同情されるべき卑しい身の上だと感じているのか、確かめようと彼は思った。
そしてそれが真実、玉露自身の本音だったとしたならば、これを最後に店を訪れるのはやめようと考えていた。
玉露の頼みを聞いたのは、単にその予定が早まるだけのことと判じたためだ。
紅花を連れて祭りに行く、という内容そのものはさして問題にしていなかった。
ただ幾らか意外には感じた。
どうして自分に、と疑問を覚えはしたが、過日、猪田に向かって『自身はお天道様の下なぞ歩ける身分にない』などと口走っていたことを鑑みれば、
『これまで祭りの一つも見たことのない可哀想な子を連れ出してやって欲しい』という願いもさほど不自然には感じなかった。
むしろ、誰にでもそんなことを言って同情をされたがっているのだろうと、ますます確信めいたものを抱いた。
やはりこれきりだ。そんな気持ちで占部は居たのである。
しかし思いがけないことが起こった。
トキワの介入と、舞い戻った先での潮による一件である。
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