三幕の一・淫雨

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「いやだよう、あんな子供っぽいもの」 玉露は文机に投げ出した半身を起こそうともせず、背中を向けたまま紅花の意見を却下する。 のし梅も甘納豆もそう大差ない気はするが、何を基準に『子供っぽい』とのたまうのか。 割合のし梅の好きな紅花はちょっと不満に思ったが、唇を尖らせるに留めた。 単に玉露は難癖をつけたいだけで、明日になればのし梅を『じじくさい』と評している可能性も十分ある。 要するに食べ飽きているのだろう。 いったい彼が何年この茶屋に暮らしているかは知れないが、確かに紅花ですら今更ここの梅饅頭を食べたいとは思わない。 そもそも『梅に鶯』の親父は菓子司修行の経験がなく、店で出される和菓子はすべて素人芸である。 それにしちゃよく出来ているから、まあ器用なことは認めるが、玉露のような舌の肥えた人間にとっては幾分物足りないのかもしれない。 「銀鍔でいいんですか」 渋々、紅花は使いを引き受けることにした。 言うまでもなく、元より決定権は紅花にないのであるが、とんとんと歯切れよく話しころころ話題の移ろう玉露のこと、勢いで使いの件は無かったことにならないとも限らない。 実際、多くの場合はそうなのである。 でなければ紅花は今頃、寺川町(てらかわちょう)中の地理を把握し、夏には真っ黒に日焼けしてしまうくらい外出の多い少年となっていたことだろう。 そうでないのは、玉露がただ言いたい放題言っているだけで実行を伴わないことが殆どだからだ。 要するに口から出まかせなのである。 今回もそうなることを多少なり期待した紅花だったが、しかし店の中に居てもどうせ気塞ぎな空気に変わりなく、 だったらいっそそぼ降る雨の中、お使いに出るのも気分を変えるに悪くはないかもしれぬ。 と、玉露の我が儘な注文に応えることにしてみた紅花であった。 妙なところで少年は強かに育ちつつあるらしい。
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