三幕の二・玄月堂

1/6
前へ
/602ページ
次へ

三幕の二・玄月堂

「茶屋町から北へ向かって地蔵辻を右に、七つ坂では千寿さんを上がって糀屋の裏から横丁を西に……」 ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレ――ではないが、半ば呪文と化した道順を店主の親父に教わった通りに、口の中で繰り返しつつ紅花は道の端を歩く。 小豆色した番傘にしとしとと雨だれが降り注いだ。 風も雷もありはしないものの悪天候とあって道行く観光客は殆どない。 すれ違うのはいずれも用向きがあって仕方なしに出掛ける地元の者ばかりだ。 観光客の賑わいに代わって雨音が辺り一帯に染み渡るように響いている。 灰白くけぶった町並みは、物憂げながらもそれはそれで風情のあるものだ。 黄色く咲いたビヨウ(やなぎ)の花には、細く天を向く雄蕊(おしべ)に雨粒が飾られ、 古い町家の軒先ではめだかの泳ぐ石の鉢が、ぴちょん、ぴちょん、と雨樋からの滴を受けて音を奏でている。 洋装が主流となりつつある昨今でも、ここいらの者は仕事柄か和装をしていることが多く、 加えて雨の日に渋々外出するのに気張った一張羅を纏う訳もないから、すっかり肌に馴染んだ古い着物を着て草履や下駄で歩いていたり、 ともすれば手拭いなんぞを笠代わりにちょいと先まで駆けてゆく者などもいて、古き良き和の情景を描き出している。 そうした中での紅花は程よく風景に溶け込んだ。 低い背丈に幾分大きすぎる番傘で、今どき珍しくなった簪を飾った禿髪(かむろがみ)の頭が隠れ、 小花の散った振袖の華やいだ赤色もまた、傘の小豆色と渾然としているせいもあるだろう。 誰に注目をあびることもなく、気負いのない足取りでただ呪文を繰り返し繰り返ししつつ歩んでいた。
/602ページ

最初のコメントを投稿しよう!

211人が本棚に入れています
本棚に追加