三幕の二・玄月堂

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向かう先は玄月堂(げんげつどう)なる和菓子屋である。 銀鍔(ぎんつば)ならばそこが良かろうと、店主の親父に教わったものだ。 道順が呪文になってしまう程、幾らか遠い(みせ)ではあるが、歩いてゆけぬ距離ではない――らしい。 らしい、というのは要するにこれまで紅花は行ったことのない店であるからだ。 寺川町(てらかわちょう)には大小合わせて数十にもなる寺院や社があるのだが、商いを営む店屋となるともはや数え切れぬ。 観光客向けの店と、そこに暮らす人々に欠かせない類の店とが混じり合い、 店舗兼住宅という小規模な商店が、時に密集し、時に点在しながら、星の数ほどあるのだった。 よって、紅花が使いで訪れたことのある店など、そのうちのほんの一握りに過ぎない。 表へ出る機会の少ない少年にとっては知らぬ店のほうが余程多いのであった。 玄月堂もまた、そうした店の中のひとつである。 店主の親父が言うには、 観光客向けに派手な呼び込みをするでもなく、かと言って敷居が高過ぎもせず、 来客時のお茶請けやお中元などにちょうどよいくらいの、地元の者に愛されている種の店であるようだ。 看板商品は、屋号にもある通りに月を模したほんのりと黄色味を帯びた蒸し饅頭であるらしい。 しかして密かな人気は銀鍔だとか。 よそのそれと違って塩味の効いた味わいで絶品とのこと。 さして高い品も無いから欲しいものがあったら適当に五、六個買ってきて構わないと、店主の親父は紅花に駄賃を手渡した。 尤も、その金子の出所(でどころ)は玉露の稼ぎである。 幾ら渡したとて親父の腹は痛くも痒くもない。
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