三幕の二・玄月堂

5/6
前へ
/602ページ
次へ
お久しぶりです、旦那様。 そう挨拶すべきか否か、紅花は逡巡する。 娼妓遊びは男の甲斐性。 とは言え、女房子供には内緒の亭主や親の金子をくすねて遊んでいる若旦那など、 茶屋の外で挨拶されては気まずいクチの者も少なくはない。 その点、篠山なんぞは支障をきたす家族の類も無ければ守るべき世間体もなさそうではあるが、 そもそも紅花の顔を覚えているかが怪しい。 初回の折には散々ッぱら酒と玉露の色香に酔わされ酩酊していた始末であるし、 その後、何度か店を訪ねてきた際は篠山一人きりだったので紅花は同席していない。 紅花にしてみれば、自身の衣装選びの失態を含めた初回の印象が強すぎて、 それ以前に下の甘味処で猪田と連れ立っているところに鉢合わせ、紹介を受けた記憶はすっかり抜け落ちている。 態度を決めかねて紅花は喉をのけ反らせたまま相手を注視した。 こんな時、オドオドとまごつくことを玉露は良しとしない。 自信のない振る舞いは陰間の品格を下げる。 よって、多少不安を抱えた時も、否、そんな時こそ、無駄な動きは極力抑えて落ち着き払ったふうを装わねばならない。 紅花はそう教えられている。 と言っても、所詮は子供であるから容易にできるものではない。 が、この場面に於いてはごく自然に教わった通りの振る舞いが叶った。 目の前でいい大人が自分以上にまごついているせいやもしれぬ。 なるほど確かにこれはみっともないと、柄にもなく辛辣な感想すら浮かんだ。
/602ページ

最初のコメントを投稿しよう!

211人が本棚に入れています
本棚に追加