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黙ったまま愛想笑んでいるだけの紅花に、篠山は視線を彷徨わせた。
どこまでも自信なさげな野暮天である。
自分から話しかけておいて、まともに相手と顔を合わせて話すことすら、ままならないらしい。
男は手にした手巾だか逆の手の畳んだ傘だか、どことも知れぬ足元に目線を落とした。
「今までで一番評判が好いのです」
地をけぶらせる程の雨脚に、掻き消されそうな声で彼は言う。
何がと問えない紅花は、小さい頭で考えに考え、ようやく「ああ」と一人納得した。
篠山の職業は作家である。
作家が評判を気にするからは、自身の本の話であろう。
となれば、先の質問もそれに関わることに違いない。
察するに、道中ブツブツと呟いていたのは単なる独白ではなく、作品に関する自身の思索を語って聞かせ、紅花に感想を求める気でいたものらしい。
とてもそうは思えぬ話しぶりであったが。
もしかせずとも彼なりの熱弁であったのやもしれぬ。
「これまで、その、わ、我ながら情けないこと……ではあるのですが、売れた本など、い、一冊もない、……のです」
足元に目を落としたまま、男は猫背を更に丸めて呟きをも落とす。
その姿の冴えなさは、言葉が謙遜などではなく事実に違いないと思わすに十分過ぎる。
紅花は頷くに頷けず、ただみすぼらしい男の横顔を眺めた。
「それが、きゅ、急に、ですね、今度の作ばかり……」
評判がいい、と。
どうやらそういう事らしい。
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