幕の裏の六・玉露

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茶屋は静まり返っている。 厳密には、雨宿りがてら小遣い稼ぎをしに来た陰間もどきの素人が、 運よくこれまた雨宿りしに来たのだろう誰ぞを掴まえ、事に及んでいる声と物音がしていないでもなかったが、 玉露にとってこれは聞き慣れ過ぎて騒音のうちに入らぬ。 賑わっていないのなら、多少の卑猥な響きなど無音も等しい。 肘を立てて手の上に頬を預け、玉露は縦の線を幾万と描く雨粒に切り刻まれた格子窓の景色をぼんやりと眺めた。 はてさて、紅花(べにばな)はどこへ行ったのか。 そも、寝入る前まで自身は何をしていたのだったか。 一年三百六十五日、殆ど毎日を茶屋の中だけで過ごし、休みなく働く彼の日々は、 余りに常態化した日常の繰り返しで、昨日と今日の区別はおろか直前の出来事と現在の繋がりすら混沌としそうになる。 頬杖するのとは逆の手でポリポリと尻なぞ掻きながら、 そう言えば羊羹だかなんだかを買いに行かせたのだったけと、彼は緩く回る頭で思い出した。 同時に軽羹(カルカン)を食ったのも思い出し、それを手土産としてやってきた男のことも思い出す。 話題に上った作家のことも思い起こしかけて、唐突なくしゃみに吹っ飛ばした。 梅盆栽に朝露のごとく滴が飾られている。 幾らか雨が降り込んだものらしい。 格子窓に硝子なんぞと洒落たものは嵌っていない。 風雨を避けるには雨戸を下ろすしかなく、冬のよっぽど寒い時でも玉露は滅多にそうしない。 盆栽が濡れているということは文机もまた然り。 それに突っ伏していた玉露の衣も、幾分湿り気を帯びている。 梅雨時の雨などそう冷たいものでもないが、さりとて温かいと言うには日差しは役目をうっちゃっている。 玉露は大儀げに腰をあげると、しけった襦袢の上から肩の辺りをさすりさすりしながら部屋を出た。
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