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「紅花の行き先なら玄月堂だよ。うちの亭主が道順を教えてやっていたからね。けどまあ、確かに幾らか遅い気はするね。道に迷ったにしても誰かに頼れば帰ることぐらいできそうなもんだけど」
『梅に鶯』は今や時代に取り残されたと言っても過言ではない数少ない陰間茶屋である。
土地の者なら知らぬ者はない。
――とまでは言えないまでも、少なくとも茶屋町までの道順を説明できぬ地元民は居まい。
「それはそうとあんた、うちの倅のことで皮肉を言うんじゃないよ。随分前の話じゃないの」
「そんなら確り躾しときなってんだ。金遣いばっかり立派になっちまって、相も変わらずの盆暗じゃないさ。財布の紐と手綱の握れる賢い嫁の一人も宛がってやんな」
「そりゃあ、うちだって欲しいけどね」
あんな男に嫁ぎたがる奇特な女がそうそう現れるはずもない。
潮の話題に母親の顔で溜め息を吐いた店主の女房は、
「まあ、そう遠くへは行っちゃいないだろうし」
と、今もどこで何をして親からくすねた金を無駄遣いしているのかわからぬ我が子ではなく、紅花に話を戻して、
手近な従業員を呼びつけると探してくるよう言いつけた。
憐れこんな雨空の下、迷子探しを命じられた若者は嫌そうに顰め面した後、渋々店を出てゆく。
それを暖簾ごしに見届けた玉露は、店主の女房に風呂を所望した。
まさか本気で紅花が潮に絡まれるなんなりの事件に巻き込まれているとは考えていない。
少し前に相も変わらぬ図々しさで訪ねてきたトキワが言ったことも、すっかり忘れ去っていた。
否。
全く脳裏を過らなかったわけではない。
が、所詮は取るに足りない戯言である。
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