三幕の四・女性(にょしょう)の情

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三幕の四・女性(にょしょう)の情

店に戻った紅花(べにばな)は手ぶらであった。 正しくは、金子の入った巾着袋を持ってはいたが、それは懐に収まる程度のものだった。 小豆色の番傘は自分の手では持っていなかった。 つまり紅花は玉露の言いつけである銀鍔(ぎんつば)を買い損ね、 且つ、連れ立つ人を伴って『梅に鴬』へと戻ったのである。 連れは篠山(ささやま)一新(いっしん)ではなかった。 結局あの冴えない三文作家は道案内の役にはまるで立たず、 察するに方向音痴なわけでも道に迷っているわけでもないらしいのだが、 どうも考え事をすると曲がるべき角を行きすぎたり進むべき方角を誤る性質らしく、 雨脚が弱まるのを待ってお地蔵様の居る東屋を出たものの、あっちへ行き、こっちへ行き、 堂々巡り宜しく目的地まで辿り着けはしないのだった。 そこに、思いがけない助っ人が現れた。 余りに思いがけなかったので、紅花はすぐにはそれが誰だか分からなかったほどである。 「あれ、君、確か(ねえ)さんとこの子じゃないかい」 前に篠山、その数歩後ろに紅花と、やや斜めになった縦に並んで歩く二人を軽快な裾さばきで歩く女性が横を通り抜け、 その追い抜きざまに二人をちらりと見やった。 恐らく、折れた蝙蝠傘を差したしょぼくれた着物の大人の男と、 比較的華やかな絹の着物に大ぶりの番傘の小さい子供という変わった取り合わせに気をひかれたのだろう。 横顔をさりげなく盗み見て通り過ぎようとした彼女は、少し進んでから思い出したように立ち止まって振り返った。 そして先の台詞を言ったのである。 『姐さん』という耳慣れない呼び方に、紅花は彼女が誰であるかを思い出した。
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