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三幕の五・動転
その晩、珍しいことが起こった。
玉露が客に粗相をしでかしたのである。
と言って、それはそう大きな粗相ではなかった。
何せ玉露の陰間としての気構えは並々ならぬものであり、陰間という生き方そのものが玉露と言ってもいい、
休みの時間のだらしなさはともあれ、客前ではそう言っても言い過ぎでない程の彼であるから、
粗相なんてものはそうそうしでかすことではないのである。
しかし同時に、それ程の彼であればこそ、些細なことすら『粗相』に含まれてしまう訳でもある。
その晩、彼のしでかした粗相は実に些細な事だった。
場合によっては誰も気づかぬ程度のことである。
要は『客の話を聞いていなかった』ただそれだけのことであった。
しかし相手が悪かった。
「おまい、誰のことを想っている?」
けして激しくはない、大声でもない、けれども確かに怒気を孕んだその声色に鼓膜を打たれ、
ハッと玉露は相手の肩へとしどけなく預けていた頭を上げた。
これもまた、彼らしからぬ失態だった。
「何をつまらないことを。妬いてんのかい? 嬉しいじゃないさ。けど、旦那のことに決まってんだろ」などと、
適当な甘言で相手の疑心を煙に巻くくらいお手の物。
百戦錬磨の娼妓らしく、仮に本当に上の空だったとしてもそう誤魔化して丸め込んでしまえば良かったのである。
それを、露骨に驚いた顔で相手を見上げてしまった。
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