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その際、ただならぬ事態に慌てふためいた紅花が座敷に駆け込んできたが、目を白黒させるばかりで役には立たなかった。
当然だろう。
これまで玉露が席に穴をあけたことなど、少年の知る限り一度もなかったのである。
ましてや客前で倒れたとなっては驚天動地の心境だろう。
それにしても咄嗟に客室に飛び込むとは、他の客であればどうして中の様子を知っていたのかという別な問題が持ち上がりかねないところである。
無論、鳳ノ介は隠し部屋の存在を知っているからすぐに理解が及んだが、紅花の考えなしには内心で呆れた。
これがかつての玉露であったなら、例え鳳ノ介が客の前で血を吐いて倒れようとも飛び込んでは来なかっただろう。
拳を握り、唇を噛んで、自身の立場を胸に言い聞かせながら成り行きを見守ったか、
音を立てずに小部屋を抜け出て、何やら様子がおかしい気がすると客より先に店主の親父へ報せに走ったか。
もっともそれは、鳳ノ介の想像に過ぎない。
意外と情に流されやすいところがあるからなあ。
と、鳳ノ介は心の内で苦笑する。
客室に飛び込んできたときの紅花の様子が思い出された。
ほんのちょっとの距離であるのに息を切らせた、まさに息せき切った慌てぶり。
元より大きな目を落ちんばかりに見開いた表情。
驚きと心配と不安と恐怖がない交ぜになった瞳の色。
蒼白になりながら頬を上気させた複雑な顔色。
どれだけ彼を慕っているか、どれほど強く思っているか、その姿を見るだけで一目瞭然であった。
それだけ玉露が目をかけてきたということだ。
本来なすべきをなせなくなる程に。
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