三幕の七・落着

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三幕の七・落着

喉の奥が引きつりそうになるのを、紅花は力を込め、唇を引き結んで堪える。 泣いて許されることなど何もないことを、少年はすでに学んでいた。 それでも涙が出てしまうこともある。 まだ子供なのだ。致し方がない。 そんな折、玉露は馬鹿にし腐った態度で笑い飛ばすこともあれば、散々コケにして詰ることもあり、滅多とないことではあったが稀に優しく受け止めてくれることもあった。 そんな時には、紅花はこの人を食った性格の寺川町一の陰間が存外、情に深く懐の大きい男であることを知る。 しかし、その玉露は現在、未だかつて紅花が見たことがない程、深々と眠りに沈んでおり、 紅花を見据える一対の瞳は(まなじり)高く流麗たろうと玉露のそれとはまるで違う鳳ノ介のそれだ。 狂暴でありながら冷静に冷酷に得物を狙う獣を思わす。 暴虐なだけの(うしお)などとは比べ物にならない。 涙を見せていい相手ではないと、幼いなりに紅花は悟った。 こんな顔を前にも見たことがあると思う。 それまで怖いと一度も感じたことのなかった鳳ノ介に対し、初めて、この人は怖い人なのではないか、そんな感覚を抱いた瞬間だ。 それ以前、 玉露はよく鳳ノ介のことを「頭が上がらない」「苦手だ」と称していたが、紅花は同様に感じたことはなかった。 鳳ノ介は華頂座(かちょうざ)で人気一番の歌舞伎役者だ。 看板を背負っているだけあり、その振る舞いは常に悠々として洒脱さを窺わせ、力みなく、鷹揚で寛大。 自他ともに認める色男である。 紅花にも優しく接してくれ、これほどの男が玉露に入れあげているとなれば部屋付きの小僧として紅花は誇らしくすらあった。 だが単によく出来ただけの男などこの世には居ないのかもしれない。 売れない三文物書きが急に売れっ子作家になったり、あけすけで気のいい好青年に見える探偵が秘密めいた微苦笑を浮かべたり、 無神経なばかりの能天気なボンボン編集者が複雑怪奇な恋心を寄せていたり、 清廉潔白を地で往く青年将校が汚濁の如き嫉妬の渦に呑み込まれ、妖しい花にそそのかされたりするように、 己が立場を知り尽くし常に賢明な判断をする一流の歌舞伎役者が、その裡に狂気じみた獣を飼い馴らしていることもあるのかもしれない。 「見返したいとは思わないかい」
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