四幕の一・盛夏

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そんな中でも紅花(べにばな)は、せっせこと汗水垂らして働き者だ。 布団の上げ下げに始まり比較的涼しい朝の早い時分から、 玉露(ぎょくろ)の脱ぎ散らかした着物を整え、畳を拭いたり窓枠にハタキをかけたりと、 午前の内に一頻りの仕事を済ませ、ふうと一息、曲げていた腰を伸ばした。 こうも暑いと二階の茶屋は階下(した)の甘味処以上に客入りがない。 むしろ、甘味処の方は、観光客の出入りこそ少ないが涼味を求める地元の客で賑わっていたりする。 が、二階は殆ど無人だ。 元より昼間は玉露が休みであるから客を取るのは『梅に鶯』に籍を持つではない素人陰間(しろうとかげま)。 その大抵は屋根があって飯がもらえて客が取れれば駄賃が貰えるからとやって来る連中であり、 そうした連中は夏の真っ盛りに蒸し風呂みたいに暑くなる二階の小部屋なんぞに寄りつくはずもない。 客だってあえてこの時分に汗みどろになりながら下手な素人とまぐわおうとは考えない。 よって、この時節の日中の『梅に鶯』の二階は静まり返っている。 喧しいのは蝉の声ばかりだ。 額に涌き出てくる汗を、ぐいと腕で拭おうとした紅花は、 直前で慌てて手を引っ込め、懐から手巾(ハンカチ)を出して汗を吸わせた。 湿気った面を内側に、丁寧に畳みなおして懐へしまってから、水の入った桶を持ち上げる。 (かね)の持ち手のついた、釣瓶(つるべ)井戸で使うのと同じ形をした桶である。 昨今ではバケツと呼ぶらしいが、紅花には馴染みのない呼称だ。 そのバケツの中では掃除に使われた雑巾が、濁った水の中で泳いでいる。 たぷたぷとそれを揺らしながら、紅花は階下へ向かった。
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